この記事では、朝ドラ「風、薫る」第26週(最終週)のあらすじをご紹介します。
| 放送日 | 2026年9月21日〜9月25日 |
|---|---|
| 週タイトル | 未定 |
最終週・第26週のおおまかな流れはこうです。
- ツヤが看護婦試験を受ける
- りんが本の執筆を始める
それでは、詳しいあらすじを見ていきましょう!
ツヤたちが看護婦試験に挑む
東京府の規則がスタートし、「看護婦試験」が実施されることになりました。
試験の日を間近に控え・・・
熱心に机に向かっているのはツヤたちです。
「頑張って・・・!」
りんも直美も、将来の看護を担う彼女たちの合格を祈っていました。
予習メモ:1回目の合格率は4割以下
1900年(明治33年)に制定された「東京府看護婦規則」。
これにより、派出看護で働く看護婦は「試験に合格する必要がある」という新たなルールが制定されました。
※2年以上、看護婦の経験があれば免除
ツヤたちが挑むのは、この試験をモデルにしたものと考えられます。
ドラマの原案小説によれば、
・試験は毎年2回
・科目は「看護法」「解剖生理の大意」「伝染病予防消毒法」「実地」
と定められていました。
この試験が初めて行われたのは、1900年11月です。
当時は、東京府内に57の派出看護会があり、900人以上の看護婦が登録されていましたが、この時の受験者はわずか57人。
合格者は21人で、合格率はわずか4割以下という結果でした。
ドラマでは、ツヤのほか、25週で登場したセツ、娘の環も試験に挑む展開となるのかもしれません。
直美が柳生に訴えかける
ある日。
直美は柳生を訪ねるため、再度、内務省衛生局に向かいました。
「どうか、私たちの看護の現場を、見にきてください!」
派出看護を「一律に質の低いもの」としてみなす政府に対して、必死に訴えかけるのでした。
予習メモ:差別的な扱いに怒った鈴木雅
1900年に制定された「東京府看護婦規則」は、必死に働く正統派の派出看護婦を傷つける内容でした。
病院で働く看護婦だけが「本物」であり、派出看護の看護婦は「看護婦の仮名を借るものにすぎない」と一括りにしたのです。
例えば、派出看護婦は、
・半ば売淫婦のように風紀を乱す
・不当の謝儀を貪る
・私設の看護婦養成所と称する場所は極めて不完全
などといった偏見、差別、侮辱が混ざった表現がありました。
取締が行われて良い面もあった一方で、「正当派の派出看護婦」のプライドや誇りが傷つける出来事だったのです。
実際、直美のモデルである鈴木雅は、この制定が出来た翌年に看護婦を引退しています。
「病弱な息子の看病」が表向きの理由でしたが、引退を決めた理由の1つに、このような政府の記述に「絶望した」と推測する研究者もいます。
ドラマでも、政府側の柳生に直美が訴えるシーンが描かれますが、これが直美の引退を招くきっかけになるのか、展開に注目です。
執筆を始めるりん
直美だけではなく、りんもこのような現状を憂いていました。
そして頭によぎるのは、「看護とは何か?」というバーンズ先生の言葉です。
看護婦を目指す生徒たちに、その精神をどう伝えるのか。
看護婦としての経験をどうやって教え、導くべきか。
「どうしたらいいのか、分からなくなってしまって・・・」
りんから悩みを打ち明けられたシマケンは、ある提案します。
「それなら、一冊の本にまとめてみてはどうですか?」
りんは、早速、執筆に取り掛かります。
今まで実践してきた、看護の集大成。
当時の最先端とされた知識やノウハウ、看護の心を詰め込んだ教科書。
後にロングセラーとなる、彼女の代表作が生まれようとしていました。
予習メモ:大関和の代表作「実地看護法」
「実地看護法」は、りんのモデルである大関和が1908年(明治41年)に出版した看護のマニュアル本です。
内容は、
・看護法
・伝染病
・普通内科病
の三部構成。
さらに付録として、
・救急看護法
・用語集
・流動食の調理法
なども載せられています。
看護の心得として、「患者を理解すること」「言葉使いや身だしなみ」「医者との関係性」などの基本的な考え方やノウハウも細かく記されています。
漢字には全て「ふりがな」付きで、読む人を選ばない、和の心がこもった教科書でした。
そんな「実地看護法」は、初版が出てから18年間で5回も改定されたロングセラーとなったのでした。
実際に「実地看護法」を読んでみたい方は、「国会図書館デジタルコレクション」にて原本の写しが公開されています。
予習メモ:大関和のその後
彼女の集大成である「実地看護法」を出版した後の大関和の人生は、どのようなものだったのでしょうか?
晩年の年表を簡単にまとめました。
| 西暦 | 満年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1908年 | 50歳 | 「実地看護法」の出版 |
| 1909年 | 51歳 | 「大関看護婦会」の設立 「大日本看護婦協会」の発足 |
| 1910年 | 52歳 | 長男・六郎が他界 |
| 1915年 | 57歳 | 全国統一の「看護婦規則」で看護料が一本化され、看護婦不足になる |
| 1918年 | 59歳 | インフルエンザの大流行に奔走 |
| 1923年 | 65歳 | 関東大震災で被災し、看護婦会の建物が焼失 |
| 1929年 | 71歳 | 脳出血で倒れる |
| 1932年 | 73歳 | 5月22日に逝去 |
ドラマで描かれるかは不明ですが、「実地看護法」を出版するきっかけとなったのは、47歳で発症したリウマチの療養生活でした。
日々の業務に追われる中で、後回しにしてきた看護の本の執筆に、ゆっくりと腰を据えることができたのです。
その後、晩年の大関和さんは、71歳の時に脳出血に倒れてしまいます。
そんな和さんを度々見舞ったのは、40年来の付き合いのある中村屋の創業者・相馬愛蔵さん(チュウのモデル)でした。
相馬さんはいつも「中村屋」の黄色い車でやってきては和の枕元に座り、帰りがけには必ず30円〜50円の布団に押し込んでいったそうです。(現在の紙幣価値で10万円ほど)
そんな療養生活では、和さんは好物のオートミールを食し、病床でも常に朗らかでした。
晩年の和さんは、国際的な優れた看護婦に与えられる「ナイチンゲール紀章」の受章者の推薦を打診されますが、「とんでもない。まっぴらに願いますよ」とすぐに断ったと言います。
名誉よりも、ナースという天職を得て、愛を持って人々に尽くせたことが一番の幸せと誇りだったのでしょう。
クリスチャンだった大関和さんの葬儀は「富士見町教会」で行われ、「青山霊園」に葬られました。
予習メモ:鈴木雅のその後
1901年(明治34年)、43歳で看護婦を引退した鈴木雅さん(直美のモデル)。
その後、息子・良一さんと共に20年ほど東京に暮らした後に、亡き夫との思い出が残る京都へ移り、晩年には静岡の沼津へと移り住みました。
沼津では、娘の鈴木みつさん、孫の康夫さんも近所におり、賑やかな老後を送っていたようです。
1938年(昭和13年)、かねてより療養していた息子・良一さんに先立たれてしまいます。
その2年後の1940年(昭和15年)、娘に見守られ、雅さんは82歳で帰らぬ人に。
孫・康夫さんの出征を見送った直後であり、大関和さんが亡くなった8年後のことでした。
その後、康夫さんは生還し、手記『次代への申し送り』にて祖母との思い出を遺しました。
手記によれば、生前の雅さんは、小学生の康夫さんとデパートに出かけた際、舶来品の瓶マスタードのラベルを流暢な英語で読み上げるなど、「ハイカラなばあさん」と評判だったそうです。
引退後も、雅さんらしく日々を送っていたようですね。
〜風、薫る(完)〜
より詳しいエピソードを知りたい方、ドラマの余韻に浸りたい方は、原案本もぜひ手にとってみてくださいね。



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