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ヘブン先生の離婚理由はなぜ?前の妻との間に何があったのか史実を深掘り【ばけばけ】

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ヘブンとマーサ
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小泉八雲夫婦をモデルした朝ドラ「ばけばけ」。

第11週では、ヘブン先生(モデル:小泉八雲)の意外な過去が明らかとなる展開に。

ヘブン先生は、日本に来る前に「結婚」と「離婚」を経験していたのです。

一体、何があったのでしょうか?

そこで今回は、

  • ヘブン先生の離婚理由はなぜ?何があった?
  • 小泉八雲の「離婚」と前の妻の史実とは?

について詳しく深掘りしていきます。

目次

【ばけばけ】ヘブン先生の離婚理由はなぜ?何があった?

泣いている男性

ヘブン先生は、かつて黒人にルーツを持つ女性(マーサ)と結婚したことがありました。

その後、なぜ離婚に至ったのか・・・

主な理由は以下の2つです。

  • 結婚が原因で新聞社を解雇されたから
  • マーサが自暴自棄になったから

一体何があったのか、詳しく見ていきましょう。

違法な結婚

ヘブン先生の最初の結婚は、25歳前後の時でした。

アメリカ・オハイオ州で新聞記者になったヘブンは、黒人にルーツを持つ女性:マーサと出会います。

二人は愛し合いましたが、当時は違う人種との結婚は州法で禁止されていました。

※実際に、当時のオハイオ州では、異人種間の結婚(白人と黒人の結婚)は、「ミクスジェネレーション(異人種間結婚禁止法)」により違法とされていました。

しかし、それを承知で二人は結婚を強行しようとしたのです。

「若気の至り」と言っても良いでしょう。

新聞社の解雇

当時、ヘブンは新聞社の敏腕記者として大いに活躍していました。

しかし、この結婚が明るみに出ると、会社は目の色を変えます。

州法に逆らって結婚したヘブンは、「品行方正に欠ける」として突然解雇されてしまったのです。

職を失ってしまい二人の新婚生活は厳しいものとなっていきました。

幸先が悪すぎますね・・・。

3年で離婚

結局、ヘブンとマーサの結婚生活は、3年ほどで破局を迎えます。

法的には認められていなかった異人種の結婚。

その後、二人は別居することになり、事実上の離婚状態となりました。

「ばけばけ」では、「マーサが自暴自棄になり、別れを決意した」とヘブンが話すシーンがあります。

収入減による生活の不安定さはもちろん、白人社会からも黒人社会からも冷ややかな目で見られるという社会的な圧力が、彼女の精神状態に影響したのでしょう。

ヘブンにとってもこの別れ(離婚)は辛いものであり、「人と深く関わるのはやめる」と決意するきっかけとなりました。

※「ばけばけ」の第1週で、ヘブンがボロボロの姿で人生に絶望していたのはちょうどこの頃です。それだけヘブンにとっても辛い出来事でした。

その後、ヘブンは単身で新天地「ルイジアナ州」へと移り、別の新聞社へ就職しています。

小泉八雲の「離婚」と「前の妻」の史実とは?

カップル

そんな「ばけばけ」ヘブン先生の離婚や前の妻とのエピソード。

マーサのモデルとなったのは、「マティ」という実在する女性です。

彼女について深掘りしていくと、史実はさらに複雑なものでした。

結婚から離婚までの流れ

小泉八雲の前の妻との「出会い」から「別れ」までの年表をざっくりと見ていきましょう

出会いから別れまで

年代(年齢)出来事
1869年(19歳)八雲が極貧状態でオハイオ州シンシナティに到着。

ホームレス同然の生活の後、下宿屋で働き口を見つける。

その下宿屋の料理人であった混血女性「マティ」(当時20代半ば~後半)と出会う。

孤独な八雲は、キッチンで彼女が語る黒人社会の民話や怪談に安らぎを見出す。
1871年(21歳)文才が認められ、「シンシナティ・エンクワイアラー」紙の記者となる。

センセーショナルな記事で人気を博し、生活が安定し始める。

この頃からマティとの親密な交際(同棲に近い状態)が深まる。
1874年(24歳)黒人牧師のもとで結婚式を挙げる。

※当時のオハイオ州法では白人と黒人の結婚は違法であったため、正式な結婚証明書は発行されず、法的には無効な婚姻。
1875年(25歳)結婚の事実が社内で問題視される。

人種差別的な風潮の中、「品行方正に欠ける」としてエンクワイアラー紙を解雇される。

その後、ライバル紙(シンシナティ・コマーシャル紙)に拾われ、記者活動を再開。
1876年(26歳)社会的な孤立、経済的な負担、マティの気性の激しさ、八雲の心労などが重なり、夫婦仲が急速に冷え込む

八雲はかなり精神的に追い詰められた。
1877年(27歳)マティと別居し、事実上の離婚状態となる。

シンシナティを捨て、南部のニューオーリンズへ旅立つ。

マティとの関係は完全に終了する。

史実では、マティさんとの生活に耐えきれず、八雲さんが逃げ出した(出奔)という形に近いようです。

若気のいたりとは言え、20代で辛い経験をした小泉八雲さん。

その後、八雲は40歳で来日し、46歳で小泉セツさんと正式に結婚(再婚)するに至ります。

マティさんとの婚姻は法的に認められていなかったため、「再婚」と言えるのかは難しいですが、八雲にとっては「二人目の妻」という意識だったはずです。

「前の妻」の人物像とは

小泉八雲さんの最初の妻「マティ」さん。

記録によれば、このような人物でした。

  • 物語(民話)の語り手
  • 母性的で料理上手
  • 孤独で情緒不安定

そして、マティさんは八雲が亡くなった後に驚くべき行動を起こしています。

「彼の遺産は私のものだ!」という訴訟を起こしたのです。(結婚は無効であったため棄却)

彼女のその後も含めて、詳しく見ていきましょう。

プロフィール・生い立ち

名前アリシア・フォリー(Alethea Foley)
愛称マティ(Mattie)
出身ケンタッキー州
職業下宿屋の料理人(コック)
人種や身分アフリカ系アメリカ人の母と、アイルランド系の白人農場主の父の間に生まれた「ムラート(混血)」の女性
奴隷制の時代に生まれ、法的には「元奴隷」という身分だったとされる。
同居家族息子

連れ子がいた

八雲と出会う前、マティさんはすでに一人の息子を育てていました。

この息子の父親が誰なのか?結婚していたのか?については明確は記録はありません。

当時の奴隷制度やマティさんの身分を考えると、正式な結婚ではなかった可能性が高いとされています。

小泉八雲と結婚した際、この連れ子は「6歳前後」で、一緒に暮らしていました。

物語の語り手

マティさんは、文字の読み書きはできませんでした。

一方で、アフリカ系アメリカ人の文化に根ざした口承伝承(フォークロア)の語り手だったとされています。

八雲の下宿先で料理人として働いていたマティさん。

八雲は、彼女が台所で語る、

  • 南部のアフリカ系民話
  • 幽霊の話(ブードゥー教の影響を受けたものなど)

などに深く魅了されたようです。

「語り手」と言えば、のちの妻となる「小泉セツ」さんの功績が思い出されます。

実際には、小泉八雲が「不思議な物語が好き」というきっかけを作ったのは、マティの語りだったとも言われているのです。

つまり、マティは八雲にとって「民話の先生」でもありました。

そんな二人の穏やかで楽しい時間が、愛を育んでいったのは自然な流れだったのでしょう。

病弱だった八雲をサポート

二人が下宿先で出会った当初、マティは孤独で病弱だった八雲を献身的に支えていたようです。

下宿屋のコックを務めていただけあり、料理上手。

八雲が病気になった時には、優しく看病もしてくれていました。

左目を失明して内気な八雲に対しても、偏見を持たずに接してくれた唯一の女性

八雲は彼女の中に、生き別れた母のような「温かな母性」や「安らぎ」を見出したのです。

そんな自分を受け入れてくれる安心感が、彼女への愛情を深めていったのですね。

また、彼女への求婚は、人種や身分の差別を受けていた彼女への「同情」や「恩返し」の気持ちもあったようです。

情緒不安定さ

小泉八雲とマティさんの結婚生活が破綻した大きな要因。

それは、彼女の激しい感情の起伏にあったとされています。

八雲の友人の証言によると、マティさんは、

  • 些細なことで激怒する
  • 深く落ち込んで塞ぎ込む

など、ジェットコースターのような起伏の激しさがありました。

彼女の癇癪(かんしゃく)はかなり激しく、八雲はそれにだんだんと疲れ果てていったのです。

ただ、それは彼女の個人的な性格だけの問題とは言えません。

当時の黒人女性というのは、社会的な立場が弱く、差別の対象でした。

特に、「白人男性と違法に結婚している」という周囲からの偏見や陰口に対して、極度のストレスを感じていた可能性もあります。

二人が住んでいた「シンシナティ」は厳格な白人社会でもありました。

教養の格差

離婚に至った原因は、彼女の性格だけではありませんでした。

八雲が記者として成功し、「知識人」としての地位を確立していくにつれ、二人の間には埋めがたい溝が生まれたようです。

彼女は文字が読めないため、教養にも乏しかったのです。

そのため、彼が書いた記事はもちろん、文学的な話や八雲の友人たちの話の中に入っていくことができませんでした。

八雲が記者として活躍するにつれて、彼女は「取り残される不安」や「束縛」を強め、彼に対して攻撃的になったのではないか?という見方もあります。

このように二人の間には、「法律の壁」「社会(人種)の壁」「教養の壁」など、さまざまな障害があったことが分かります。

遺産目的の訴訟

八雲はその後、小泉セツさんと日本で再婚。

マティさんも、その後は「ジョン・クラインタンク(John Kleintank)」という男性と再婚しています。

こちらも正式には受理されませんでしたが、彼女は晩年も「クラインタンク」という名字を名乗り、連れ子の息子夫婦と一緒にシンシナティで暮らし続けました。

その後、マティさんは、1904年に小泉八雲が亡くなった際、「私が正当な未亡人である!」と遺産分配を求めて訴訟を起こしています。

しかし、オハイオ州の裁判所で「当時の法律では結婚は無効であった」とされ、彼女の訴えは棄却。

八雲の印税や遺産は、日本の妻である小泉セツさんに全て受け継がれることとなったのでした。

悲劇的な最後

そんなマティさんは晩年、糖尿病を患い、60代半ばで他界しています。

糖尿病の悪化により、壊疽(えそ)を起こした足の切断手術を受けましたが、その術後のショックにより亡くなったとされています。

八雲が亡くなってから、約9年後のことでした。

最初の女性として注目

ここまで読むと、「ちょっとやばい女性だったんだな」と思われる方も多いでしょう。

確かに、彼女との結婚・離婚は、八雲の研究者たちの間では「若き日の過ち」や「黒歴史」として扱われることが多々ありました。

しかし、近年では、最初の妻である彼女を一人の女性として”再評価”する書籍も出てきています。

こちらは、小泉八雲を愛した3人の女性(母・マティ・セツ)を題材にした伝記的フィクション作品です。


“ここではないどこか”を求めつづけ、最後には日本で「移民作家・小泉八雲」となった男ラフカディオ・ハーン。
彼の人生に深く関わった3人の女性が、胸に秘めた長年の思いを語りだす。

生みの母ローザ・アントニア・カシマチは、1854年、アイリッシュ海を渡る船上で、手放した我が子パトリシオの未来を思いながら。
最初の妻で解放奴隷のアリシア・フォーリーは、夫パットとの別離を乗り越えたのち、1906年のシンシナティで、新聞記者の取材を受けながら。
2番目の妻で武士の娘小泉セツは、八雲との永遠の別れのあと、1909年の東京で、亡き夫に呼びかけながら。

あなたを語ることは、あなたを蘇らせること――
ジョン・ドス・パソス賞受賞の注目作家が、女性たちの「声」を繊細かつ鮮やかに描いた話題作

引用:集英社文芸ステーション

彼女との出会いと離婚がなければ、その後、八雲が来日するきっかけは生まれなかったかもしれません。

いずれ来日できたとしても、タイミングが違っていた(セツさんと会えなかった)可能性もあります。

また、彼女が「民話の語り手」として活躍してくれたことは、その後の代表作「怪談」などにも繋がっていきます。

「人生に意味のないことは起きない」

その時には「失敗」と思える過去の出来事でも、そのような長い視点で見れば、納得がいくこともあるかもしれませんね。

八雲にとって、人生に大きな影響を与えるターニングポイントとなったはずです。

今後、ヘブン先生の閉ざされた心の扉を、トキがどうやって開けていくのか・・・

引き続き、朝ドラ「ばけばけ」を楽しんでいきましょう!

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