朝ドラ「ばけばけ」の放送で再注目されている小泉八雲さんの人生。
アメリカにいた時代には、複数の新聞社に勤め、文芸部長も歴任しています。
そんな小泉八雲さんが勤める新聞社とはどこだったのでしょうか?
今回は、小泉八雲さんのアメリカの記者時代について深掘りしていきます!
小泉八雲が勤めたアメリカの新聞社はどこ?

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんは、アメリカ時代、以下の4つの新聞社に転職した経歴があります。
| 社名 | 場所 |
|---|---|
| シンシナティ・エンクワイアラー社 | オハイオ州・シンシナティ |
| シンシナティ・コマーシャル社 | オハイオ州・シンシナティ |
| デイリー・アイテム社 | ルイジアナ州・ニューオリンズ |
| タイムズ・デモクラット社 | ルイジアナ州・ニューオリンズ |
だいたい2年ほどのスパンで転職していました。
中でも、4つ目に入社した「タイムズ・デモクラット社」では文芸部長のポストについています。
また、長年の友人となる女性記者「エリザベス・ビスランド」などは同僚として働いていました。
詳しくみていきましょう!
①シンシナティ・エンクワイアラー社(24歳)
小泉八雲さんが最初に働いた新聞社。
それは、オハイオ州・シンシナティにある「シンシナティ・エンクワイアラー社(The Cincinnati Enquirer)」でした。
きっかけは、別の出版社で校正係をしていた時に書き上げた原稿をその新聞社に持ち込んだことでした。
すると、その才能が認められ、1974年(24歳の時)に正式に記者として雇われることになったのです。
入社後、小泉八雲さんは若手ジャーナリストとして活躍。
新聞の発行部数に大きく貢献します。
特に、皮革製造所でおきた事件のルポを書いたことで「事件記者」として一躍名を挙げたのです。
しかし、そんな順調な記者生活も、あることがきっかけで陰りを見せていきます。
小泉八雲さんが、下宿先の料理人・アリシアと結婚しようとしたことで、新聞社の反感を買ってしまったのです。
理由は、アリシアが「黒人と白人とのハーフ」だったからでした。
当時住んでいたオハイオ州では、白人と異人種間の結婚は違法とされていました。
クオーター(1/4)であっても結婚はNGでした。
結果、小泉八雲は新聞社にケンカを売ってしまい、解雇されることになったのです。
②シンシナティ・コマーシャル社(26歳)
その後、小泉八雲さんは、ライバル社「シンシナティ・コマーシャル社(Cincinnati Commercial)」に貰われることになります。
一方、恋人・アリシアとの結婚はせず、二人は破局することに・・・。
それからの八雲さんは、仕事に没頭し、2年間ほど多忙な記者となります。
1日14時間も働き、毎日数欄のセンセーショナルな記事を書いていました。
しかし、だんだんと心も体も疲れ始めてしまいます。
私は新聞に対する真面目さを失った。どうしても変化が必要だ。
引用:小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン(田部隆次)
小泉八雲さんは、寒暖差が激しい気候も苦手でした。
そのため、今度は気候も良い「ルイジアナ州・ニューオリンズ」に南下することを決心します。
③デイリー・アイテム社(28歳)
小泉八雲さんが次に入社したのは、「デイリー・アイテム社(Daily Item)」という小新聞の編集所でした。
そこでの八雲さんは、
- 社説
- 随筆
- 翻訳
など、マルチにこなします。
一方で、勤務時間は10時〜13時のわずか3時間。
シンシナティ時代の14時間と比べればはるかに負担が少ないものでした。
月給も少なくなったものの、物価が安かったために生活は可能でした。
その後、八雲さんは新聞記事の他に「漫画」を描くことを試みます。
すると、挿絵記事が載った新聞の売り上げはたちまち激増したのです。
文筆の才能だけでなく、絵画の才能もあったのですね!
結果、小泉八雲さんは準編集長となり、月給も2倍に。
しかし、もともと左目を失明して右目しか見えない八雲さんは、目の調子を崩し始めていました。
この頃の八雲さんは、友人への手紙に、「今度は商売を始めてみたい」などと書いています。
目は疲れ切っている。
引用:小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン(田部隆次)
早晩新聞記者も止めねばなるまい。
何か商売でもやって見ようかと思う。
「どこへ行こうか」「何をしようか」という疑問がまぼろしのように現れて来る。
健康上の理由もあり、30歳を手前に自活の道を考え始めていたようです。
1879年3月、小泉八雲さんは「不景気屋」という1品5セントの食堂を開業しました。
しかし、仲間が有金を奪って逃げてしまい、たった20日間で閉業。
晩年、「商売はとてもダメ、一度で懲りた」と家族に語っています。
④タイムズ・デモクラット社(31歳)
1881年12月、31歳になった小泉八雲は、またも転職をします。
南部第一の大新聞「タイムズ・デモクラット社」に「文芸部長(文学部長)」のポストをもらったのです。
当時の小泉八雲は、南部の最も優秀な記者の一人となっていました。
この会社で、生涯の友人となる「エリザベス・ビスランド」という女性記者と出会うことに。
八雲の記事に感銘を受けて同社に入社した女性記者。
1889年に世界一周を競って開催された雑誌企画にチャレンジした1人。
世界一周の途中で訪れた日本の経験を八雲に語り、八雲が来日後も文通を欠かさなかった。
八雲が亡き後は、彼の伝記を発刊し、その収入で遺族たちの生活を支える手助けをした。
それからの小泉八雲は、執筆・翻訳活動に専念し、様々な本を出版します。
- 『クレオパトラの一夜とそのほか幻想的物語集』(翻訳)
- 『飛花落葉集』
- 『中国怪談集』
また、この頃、万国博覧会で「日本館」の展示に魅了され、日本という国に興味を持つようになっていきます。
忙しいながらも充実した日々を送っていた小泉八雲は、この「タイムズ・デモクラット社」で6年間働いた後に退職。
カリブ海の島に行き、そこで生活しながら紀行文を書きたいという夢を叶えるためでした。
その後、日本へ
まもなく小泉八雲は、日本行きを考え始めます。
紀行文を出した出版社「ハーパー社」と打ち合わせをし、今度は日本で書く原稿を買ってもらえるよう取り付けます。
そして、バンクーバーから、憧れの地・日本に向けて出港するのでした。
まさか紀行文作家から、英語教師になるとは夢にも思わずに・・・。
まとめ
今回は、朝ドラ「ばけばけ」で再注目されている小泉八雲さんの「記者時代」について詳しく解説しました。
会社を転々としていた小泉八雲さんですが、「1つのところに長くとどまれない」という、飽き性・放浪癖のようなものがあったようです。
一方で、それぞれの会社で実績を積み、約13年ほどの間、多くの記事や書籍を残したのでした。
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