朝ドラ「ばけばけ」の放送で再注目されている小泉八雲の人生。
彼の日本でのキャリアは「教師」というのが有名ですが、ドラマではヘブンが教師に消極的・・・という場面が描かれました。
実は、ヘブンのモデルの小泉八雲は、アメリカでは長く新聞記者として働いていた経歴があります。
そんな小泉八雲がなぜ日本で「教師」になったのか不思議ですよね。
そこで今回は、その理由や経緯を詳しく解説していきます!
小泉八雲が教師になった理由とは?なぜ転職した?

ある雑誌の特派員として日本に来ましたが、原稿を買ってくれる予定の出版社と不仲となり、無職になってしまったからでした。
「新聞記者」から「教師」という職に辿り着くまで、ざっくりと以下のような流れがありました。
- 新聞記者(アメリカ)
↓ - 文筆家(アメリカ)
↓ - 通信員(日本)
↓ - 無職(日本)
↓ - イギリス人学校の教師(横浜)
↓ - 公立学校の教師(松江)
一体何があったのか、詳しく見ていきましょう!
新聞記者から文筆家へ
アメリカで長く新聞記者として働いていた小泉八雲。
鋭い観察力や文才によって記事は高く評価されていましたが、彼には「紀行文を書きたい(文筆家になりたい)」という夢がありました。
自分の表現力をもっと活かせる仕事を探していたのです。
ついに八雲は、30代後半に新聞社を退職。
カリブ海の島に渡り、「ハーパー社」という雑誌社に紀行文を寄稿し始めます。
寄稿家としての彼の紀行文は好評でした。
そして、かねてから興味のあった東洋の国「日本」に向かい、そこで紀行文を執筆しようと考えたのです。
出版社との決裂
小泉八雲は、雑誌の「通信員」として来日。
横浜に到着すると、日本文化にすぐに魅了され、紀行文も順調に書き上げていました。
しかし、来日して間も無くのこと。
出版社「ハーパー社」との関係が悪化してしまいます。
詳しい理由は諸説ありますが、
契約内容に不信感を抱いたため
という説が濃厚です。
小説「ヘルンとセツ」では、以下のような経緯が説明されています。
- 八雲と正式な契約を結んでくれなかった
- 取材費や原稿の前渡金が支払われなかった
- 自分の原稿よりも同行した挿絵作家の方がギャラが高かった
元々怒りっぽい性格だったこともあり、小泉八雲は自分から「絶縁状」を送りつけたようです。
これにより、小泉八雲は「通信員」としての立場を失い、無職に。
帰国することも悩みましたが、八雲は「違う出版社に売り込めばいい」と紀行文を書くことはやめませんでした。
イギリス人学校の教師へ
しかし、滞在費を得るためには、お金を稼ぐ必要があります。
そのため、小泉八雲は、横浜の地で職を探し始め、そこで「教師」という仕事にたどり着きました。
横浜には当時、多くの欧米人がやってきていたため、その子女のための学校も多くありました。
そのうち、ある私立学校のイギリス人校長から「作文の教師の仕事」を頼まれたのです。
いわば、欧米人の生徒相手の「国語の先生」ですね。
しかし、ここでも小泉八雲は、その校長とトラブルになってしまいます。
彼の日本人に対する上から目線の態度や方針が気に入らなかったのです。
結局、実際に教師として勤める前に辞めることに・・・。
これらのエピソードを見ても、小泉八雲がいかに繊細かつ怒りっぽい性格だったのかが伺い知れます。
公立学校の教師という仕事
そんな小泉八雲に助け船を出した人物がいました。
帝国大学で英語教師をしていた「バジル・ホール・チェンバレン」です。
彼はイギリス出身の日本研究者であり、「古事記」の英訳を担当した人物。
小泉八雲が日本行きを強く望んだのは、このチェンバレンの「古事記(KOJIKI)」に大きな感銘を受けたからだと言われています。
八雲は、来日してすぐに紹介状を手に、チェンバレンの元を訪れました。
その後、手紙で「職を探している」という八雲に、「尋常中学校の英語教師のポストが空きそうだ」という良い情報をくれます。
最初は「大分県」の予定でした。
しかし、その仕事が流れてしまい、代わりに「島根県松江」の教師の仕事が紹介されたのです。
教師としての初めての赴任先は、「古事記」に書かれた、神々のふるさと・島根。
偶然とはいえ、小泉八雲は、職が見つかったことと同じくらいに、自分の紀行文がより良いものになることを喜んでいたのではないでしょうか。
小泉八雲の教師としての評判
小泉八雲は、物書きであり、教師としての経験はありませんでした。
しかし、多くの生徒たちに親しまれる教師となりました。
それは、
- 横柄な態度を取らない
- 日本人の精神性や文化を大事にする
といった今までの西洋人のイメージを良い意味で覆したからです。
そのことは、当時の「松江日報」にもこのように報じられています。
お雇教師ヘルン氏。
引用:田部隆次「小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン」
本邦に在留せる西洋人はとかく自国の風を固守し我邦の事物を目して野蛮なり未開なりと悪しざまに批評する癖あれども、
今度本県に雇入れられたるお雇教師ヘルン氏は感心にも全く之に反して、
日本の風俗人情を賞讃すること切りにして其身も常に日本の衣服を着して日本の食物を食し、
只管日本に癖するが如き風あり・・・・
少々わかりにくいので、現代語風に直すとこのような意味になります。
お雇い外国人教師のヘルン氏。
日本に滞在している西洋人は、多くの場合、自分の国の習慣を頑なに守り、
日本の文化や風習を「野蛮だ」「未開だ」と悪く言う傾向があります。
しかし、今回本県に雇われたお雇い教師ヘルン氏は、そのような態度とはまったく反対でした。
彼は日本の風俗や人情を心から称賛し、
いつも日本の服を着て、日本の食事を取り、
まるで日本にすっかり馴染もうとしているかのような様子でした――。
八雲の前任者のカナダ人教師は、いかにもここにある西洋人のような態度で授業をしていたそうです。
ある生徒は、「ヘルン先生も、私たちを野蛮人だと思いますか?」と質問を投げかけました。
すると八雲は、「そんなことを言う人間こそが野蛮だ!」と怒り、いかに日本人の精神性や文化が素晴らしいのかを外国人の目線で教えてくれたと言います。
日本という国を愛し、尊重してくれる先生。
その感動は、学生からその家族へも伝わっていき、松江の人は彼を敬愛したのでした。
八雲自身も、「教師の仕事は面白い!」と語り、楽しく教壇に立っていたようです。
ハーパー社とのその後
横浜での紀行文の原稿とともに、出版社に絶縁状を送りつけた八雲・・・。
実はその後、ハーパー社から手紙が届いています。
「横浜の紀行文の評判から良いから、今後の原稿も全て買い取る」という嬉しい内容でした。
八雲がやりにくい人物だとは感じつつも、その才能を買っていたということでしょう。
このようにして小泉八雲は、「物書き」と「教師」という二足の草鞋を持ちながら滞在していたのです。
まとめ
今回は、朝ドラ「ばけばけ」で再注目されている小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんの教師としてのキャリアの始まりについて解説しました。
簡単にまとめると、
- 雑誌の特派員として来日したものの、原稿を買ってくれるはずの出版社とトラブルになった
- 原稿料が入らないため、日本での滞在費を稼ぐために教師の仕事になった
ということでした。
彼の目的は「紀行文を書くこと」でしたが、結果的にその教師としての素質も買われ、最終的には「帝国大学」の教師にまでたどり着きます。
人生とは不思議なものですね。
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