小説家・宇野千代さんをモデルにしたNHK朝ドラ「ブラッサム」。
国仲涼子さん演じる珠の母・葉野リョウは、4人の子供達に愛情を注ぐ献身的な母として描かれます。
そんな葉野リョウのモデルと思われるのは、宇野千代さんの母・宇野リュウさんです。
実は、宇野千代さんの実母は早世しているため血縁関係はなく、宇野リュウ(旧姓:佐伯リュウ)さんは17歳で後妻として迎えられた「継母」でした。
史実の宇野リュウさんとは、一体どのような人物だったのでしょうか?
そこで今回は、
- 葉野リョウのモデル「宇野リュウ」とは?(顔写真あり)
- 宇野リュウと宇野千代の関係やエピソードは?
- 宇野リュウの晩年や死因は?
について詳しく解説していきます!
ブラッサム母リョウのモデル|宇野リュウとは?(顔写真)
朝ドラ「ブラッサム」の公式サイトでは、国仲涼子さん演じる葉野リョウは、「珠の継母」や「後妻」として紹介されています。
珠の継母 葉野リョウ/国仲涼子
引用:NHK公式サイト
実母を亡くした幼い珠のもとにやってきた、清治の後妻。その後、珠にとっての弟と妹を産み、献身的に家族を支える。
珠のモデルの宇野千代さんにも、「宇野リュウ」という名前の継母がおり、名前も似ていることから、葉野リョウの実在モデルであると考えられます。
宇野リュウさんは、17歳で宇野俊次(当時44歳)の元へ嫁ぎ、宇野家の後妻となりました。
詳しく見ていきましょう。
宇野リュウのプロフィール
旧姓・佐伯リュウさんは、1883年(明治16年)5月26日の生まれ。
山口県玖珂郡川下村(現在の岩国市川下町)の佐伯順一郎・ミヱ夫妻の「四女」として誕生しています。
リュウさんの実家周辺
父・順一郎さんの職業は不明ですが、母・ミヱさんは、川下村の小学校の近くで「文具店」を営む働き者でした。
その後、リュウさんは、実家から4キロほど離れた、岩国市川西の「宇野家」へ嫁ぐことになります。
相手は、実家が酒造業を営む、裕福な宇野家の次男・宇野俊次でした。
1900年に結婚したリュウさんは、俊次さんの前妻の娘・千代さんをはじめ、自身が産んだ5人(4男1女)の子供を育て上げました。
宇野リュウの家系図と子供たち
ここで、宇野リュウさんの家系図を見ていきましょう。

ご覧のように、宇野リュウさんと宇野俊次さんの間には、
- 長男:宇野薫(かおる)さん
- 次男:宇野鴻(ひろし)さん
- 長女:宇野勝子(かつこ)さん
- 三男:宇野光雄(みつお)さん
- 四男:宇野文雄(ふみお)さん
という5人の子供が誕生しています。
千代と14歳差の花嫁
結婚当時、夫となる宇野俊次は44歳、リュウさんはまだ17歳という若さでした。
年齢差は20歳以上で、現代の感覚からすればかなり大きな差ですよね。
そんなリュウにとって、継子となる千代(当時3歳)との年齢差はわずか14歳であり、「母子」というより「姉妹」のような年齢差でした。
さらに、いざ嫁いでみると、20歳以上離れた夫は定職につかない遊び人であり、夫の実家(宇野酒造)の仕送りに頼った貧乏生活。
この複雑な家庭環境の中をリュウは耐え凌ぎ、深い愛情で献身的に家族を支え続けたのです。
→宇野千代の父・宇野俊次とはどんな人物?(ブラッサム珠の父モデル)
宇野リュウさんの顔写真
そんな宇野リュウさんの面影がわかる写真が1枚残されています。

晩年ごろの写真かと思われますが、優しそうな眼差しが印象的ですね。
宇野千代さんは自伝で「色の白い、それはきれいな人だった」と語っています。
目鼻立ちがはっきりしている雰囲気は、「ブラッサム」で葉野リョウ役を演じる国仲涼子さんともどこか似ているように見えます!
宇野リュウと宇野千代の関係やエピソードは?
「継母」と聞くと関係性が難しいイメージがありますが、宇野千代さんは、
- 後年まで生母の存在を知らなかった
- 「リュウさんが母親」と信じていた
- 他の弟妹と分け隔てなく深い愛情を注いでくれた
とその人柄を尊敬しながら回想しています。
ここからは、そんな宇野リュウさんと宇野千代さんの関係性がわかる印象的なエピソードを6つご紹介します。
朝ドラ「ブラッサム」でも描かれるのか注目しながら予習してみてください。
エピソード①「姉さまが先」
宇野千代さんの自伝には、近所から「おはぎ」のお裾分けをもらった際のエピソードが記されています。
幼い弟妹たちが「早く食べたい」とねだっても、リュウさんは千代さんが家に戻るまで待たせ、必ず千代さんから先に食べさせていたというのです。
このとき、私がその場に居合わせなかったときなど、「まアお待ちい。姉さまがお戻りてから分けて上げるけえ」と言って、弟妹たちを待たせる。
宇野 千代「生きて行く私」 (角川文庫)
「継子」を後回しにするどころか、「一番上の姉」として立ててくれていたリュウさんのおかげで、千代さんたちはとても仲の良い兄弟姉妹になったといいます。
このようなリュウさんの気遣いはあらゆる場面で見られ、「芝居に出てくる継子いじめの反対だった」と千代さんは振り返っています。
エピソード②「千代が追いかけてきた」
宇野千代さんの父・俊次さんは、遊び歩く放蕩無頼な男で、家では独裁的で厳しく、リュウさんとは生活感覚が全く異なっていました。
そのため千代さんは、リュウさんが夜な夜な泣いている声を何度も聞いたことがあったそうです。
ある時、リュウさんは、俊次さんが道楽で飼っていたカナリアに餌をあげようとして逃がしてしまい、俊次さんに厳しく叱責され、実家に逃げ帰ってしまいました。
幼い千代さんは「おかあ、おかあ」と泣きながら、女中の背中に乗って追いかけ、その姿に強く胸を打たれたリュウさんは元の家に戻ることにした、というエピソードが残っています。
リュウさんは後年、「千代さんが追いかけてくれなかったら、戻っていなかったかも」と笑い話にしていたそうです。
「あのとき千代さんが、わしを追うておいでんかったら、わしはこの家には戻らんかったかも知れんでよ」。母は私が大きくなってからも、よくそう言って笑った。
宇野 千代「生きて行く私」 (角川文庫)
エピソード③「生母でないと知っても」
宇野リュウさんは、千代さんが2〜3歳頃に後妻となったため、千代さんはリュウさんを実の母親だと信じて育ちました。
千代さんが14歳の頃、生母の姉(藤村カツ)と町で再会したことで、「自分とリュウの間には血の繋がりがない」「本当の母親はすでに死んでいる」ということを初めて知ります。
しかし、それを知ってからも、母と娘の関係が変わることはありませんでした。
千代さんに生母の記憶や遺品が全く残っていなかったこともありますが、「そのままの母(リュウさん)を愛していた」と語っています。
私はあの母が自分にとっては生母でないと知りながら、そのままの母を愛していたのであった。
宇野 千代「生きて行く私」 (角川文庫)
エピソード④「歌うのが好きだから」
千代さんが16歳の時に父・俊次さんが病死したため、母リュウさんは町へ出て、糸とり工場で働き始めます。
その頃、父の実家の仕送りも止まってしまい、リュウさんは学費や生活費を稼ぐため、大黒柱となって大変な苦労を背負っていたようです。
後年、千代さんはリュウさんに申し訳ない気持ちで「私の女学校の費用のために働いていたんでしょう?」と聞いたことがありました。
その時、リュウさんは笑って「糸をとりながら歌うのが好きで、みんな私の声に聞き惚れていたから行ってたんだよ」と意外な答えを返してきたんだとか。
「何の、お前の学校のためかいの。わしゃあ、唄を歌うのが好きでのう。いつでも糸をとりながら、声を上げて唄を歌うたもんじゃが、みんなが、わしの声に聞き惚れてのう、それが自慢で、糸とりに行ったんでよ」と笑って言ったのをいまでも忘れない。
宇野 千代「生きて行く私」 (角川文庫)
千代さんは、これはリュウさんの優しい嘘ではなく、本心だと信じたそうです。
辛い中でも、自分の好きなことのためなら頑張れる、それは千代さんも同じ考えでした。
エピソード⑤「母の白粉をこっそり…」
千代さん自身も家計を助けるため、女学校卒業後は、隣町の「川下村尋常高等小学校」の代用教員として働き始めました。
まもなく、千代さんは初めて化粧を知り、人生が変わるような体験をします。
夏休みのある夕方、千代さんはお風呂場にあった母リュウさんが使い古した白粉(おしろい)を見つけ、そっと顔にはたいてみたそうです。
元々顔立ちが良かった千代さんは、色黒だった顔が白粉のおかげで「別人」のようになったことに驚愕したといいます。
これが自分の顔をもとにして変貌したものか。それは思いも及ばない、この世のものとも思えない美しい娘の顔に見えた。ただ白粉を刷いただけで、裏と表をひっくり返したように、こんなに変わるとは。
宇野千代「或る一人の女の話」より
お化粧をした千代さんの美貌は輝きを増し、「周囲から一目を置かれる女性」となっていきます。
通勤の行き帰りにはラブレターを何通も貰い、体操の時間には千代さん目当ての見物客が運動場の周りに集まったり、村長の息子からの縁談を持ちかけられたり…。
母リュウさんの白粉をつけたその日を境にして、千代さんの人生は激変したのでした。
エピソード⑥「船に乗って行きなさい」
1915年(大正4年)、千代さんは恋愛問題をきっかけに教員の職を失い、故郷を離れる決意をします。
世間の目を避けるように京城(現在のソウル)へ向かおうとする千代さんを、母リュウさんは一切責めることはありませんでした。
それどころか、出来るだけ人目につかない出発方法を一緒に考え、夜明け前の港で千代さんを見送ったというエピソードが残っています。
「汽車じゃなうて、新港から汽船に乗ってお行きた方がええでよ。新港から、夜の明けしなにお出ると、誰も知った人はおらんけえのう」と言うではないか。そのときの母の思いがどんなであったか、いまでも私は思い知ることが出来る。まだ夜の明けない頃、汽船で出て行けば、この不幸な娘の出奔は、誰の眼にも触れることがないだろう、とそう思ったに違いなかった。
宇野 千代「生きて行く私」(角川文庫)
母に見送られた新港
その後、千代さんは京城から戻った後も、京都、東京、札幌と各地を転々としながら、作家としての道を歩み始めます。
その出発点には、どんな選択をしても見捨てない継母リュウさんの存在がありました。
宇野リュウの晩年や死因は?その後どうなった?
宇野千代さんの継母・宇野リュウさんは、晩年、胃がんを患い、68歳で亡くなっています。
母の死後、千代さんはリュウさんをモデルの1人にした小説「おはん」を発表し、宇野千代の最高傑作として高い評価を受けました。
最後に、宇野リュウさんの年表も含めてご紹介します。
千代の夫らとの交流
40代になった宇野リュウさんは、千代さんの配偶者とも交流していました。
千代さんは生涯に4度結婚と離婚をしていますが、3人目の夫・尾崎士郎と岩国の別荘を借りて半年間滞在することがありました。
この時、リュウさんは尾崎さんの印象を「なんといいお人だろう」と褒めちぎっていたようです。
ここに私たちのいる間に、母も弟妹たちもたびたびやって来た。「何ちゅう、尾崎さんはええお人じゃろう」と言って、母が嘆声をあげた。
宇野 千代「生きて行く私」(角川文庫)
また、尾崎さんと離婚後、パートナーとなった画家の東郷青児さんの息子・志馬さん(当時小学生)も、夏休みに一人で岩国のリュウさんの家に滞在したという話が残っています。
当時、千代さんは志馬さんにとって「継母(未届)」でしたが、その「継母の継母」にまでご縁があったというのは、面白いエピソードですよね。
胃がんを患って娘たちの元へ
その後も岩国に一人で住んでいたリュウさんは、「体の具合が悪い」と千代さんに相談。
すぐに東京へ連れてきて病院で検査すると、「胃がんの末期」であることが判明します。
この時、病院に駆けつけていた一番末の弟・文雄さんが涙をこぼしたそうですが、千代さんは長女らしく泣かなかったそうです。
その後、リュウさんは千代さんの青山の自宅で同居し、千代さん(当時54歳)や次女の勝子さんらに看病を受け、そのまま帰らぬ人に。
享年68歳、1951年(昭和26年)のことでした。
一方、リュウさんの実母(佐伯ミヱさん)は長生きで、1966年(昭和41年)に101歳で亡くなっています。
晩年は宇野千代さんが東京に呼び寄せ、血の繋がらない祖母と楽しく暮らしながら、最期まで看取ったのでした。
リュウをモデルにした小説
母リュウさんの控えめで、忍耐強く、それでいて深い愛情を持つ人柄。
それは、宇野千代さんの”最高傑作”とも名高い代表作「おはん」のヒロイン像に大きな影響を与えたといわれています。
「おはん」とは
古物屋を営む男が芸者「おかよ」と別れた妻「おはん」との間で心揺れる物語。
千代の故郷・岩国を舞台に、料亭の半月庵、椎尾神社、臥竜橋、龍江淵などが登場する。
千代さんがこの作品を書き上げ発表したのは、1957年(昭和32年)で、母リュウさんの死から6年ほど経ってからのこと。
「おはん」は、野間文芸賞や女流文学者賞を受賞し、国内外から高い評価を受け、舞台化や映像化もされています。
遺志を継いで生家を守る
その後、1974年(昭和49年)、千代さんは岩国の実家の修復・復元に私財を投じています。
母リュウさんが亡くなる直前まで、「うちの家が一番ひどい」と岩国の実家の傷みを気にかけていたからでした。
その生家は現在も残っており、有料で一般開放され、庭園では四季折々の花々を楽しむことができます。
宇野リュウ 略年表
| 年 | リュウの年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1883年(明治16年) | 0歳 | 山口県玖珂郡川下村に佐伯家の四女として誕生 |
| 1900年(明治33年) | 17歳 | 宇野俊次と結婚 継母として千代を養育 |
| 1901年(明治34年) | 18歳 | 長男・薫が誕生 |
| 1904年(明治37年) | 21歳 | 次男・鴻が誕生 |
| 1906年(明治39年) | 23歳 | 長女・勝子が誕生 |
| 1908年(明治41年) | 25歳 | 三男・光雄が誕生 |
| 1911年(明治44年) | 28歳 | 四男・文雄が誕生 千代が生母の存在を知る |
| 1913年(大正2年) | 30歳 | 夫・俊次が病死 |
| 1914年(大正3年) | 31歳 | 千代が小学校で働き始める |
| 1915年(大正4年) | 32歳 | 千代の京城行きを見送る |
| 1951年(昭和26年) | 68歳 | 胃がんのため死去 |
ブラッサム母リョウのモデル|宇野リュウに関するQ&A

「ブラッサム」の葉野リョウと史実の宇野リュウにはどんな共通点がありますか?
宇野千代さんをモデルにしたヒロインの「継母(後妻)」であること、「献身的に家族を支える」という役割に共通点があります。
逆に、モデルの宇野リュウさんと異なっている部分はありますか?
はい。史実での宇野リュウさんは、5人の子供(男4・女1)を産みますが、ドラマの葉野リョウさんは3人の子供(男2・女1)の母親になっています。
昔の女性は多産であるため、子供の人数が少なくなるのは朝ドラではよくある変更点です。
宇野千代の父はひどい人物だったそうですが、リュウさんは結婚前にそのことを知らされていなかったのでしょうか?
それは分かりません。
宇野千代さんも自伝の中で「どんな男だったか誰にも聞かなかったのか」「分限者だった高森の宇野家の次男としか聞いてなかったのか」とその点を不思議がっています。
そして「今から80年以上前の田舎では、こんなことは珍しいことではなかった」とも振り返っています。
まとめ
今回は、朝ドラ「ブラッサム」で国仲涼子さんが演じる母・葉野リョウのモデルとなった、宇野リュウさんについて詳しく解説しました。
記事のポイント
- 17歳で宇野家の後妻に
20歳以上も年上の遊び人の夫のもとに嫁ぎ、わずか14歳差の千代の「継母」となりました。 - 実の子と変わらぬ深い愛情
千代を「一番上の姉」として立て、千代自身が後年まで実母だと信じて疑わないほどの愛情で育て上げました。 - 献身的に家族を支える強さ
夫の死後は工場で働きながら家計を助け、千代が世間の目を逃れて出奔する際も、決して責めることなく温かく送り出しました。 - 名作『おはん』のモデル
晩年は胃がんで亡くなりますが、その忍耐強く優しい人柄は、千代の最高傑作と言われる小説のヒロイン像に多大な影響を与えました。
複雑な家庭環境や貧困といった苦労の中にあっても、常に前を向いて、大きな愛で家族を包み込んだリュウさん。
彼女の存在なくして、「小説家・宇野千代」は誕生しなかったと言っても過言ではありません。
朝ドラ「ブラッサム」では、そんなリュウさんの強さと優しさがどのように描かれていくのか注目して行きましょう!
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参考文献
- 宇野千代「生きて行く私」(角川文庫)
- 宇野千代「或る一人の女の話」(講談社)
- 神埜努「女流作家の誕生 宇野千代の札幌時代」(共同文化社)
- 「宇野千代咲き誇るその生涯」(コスミック出版)



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