朝ドラ「あんぱん」で、柳井医院の妻として登場した柳井千代子(戸田菜穂)。
東京編になってからは登場する頻度が少なくないり、「千代子さんはどうなったの?」と気になっていた人も多いはずです。
そこで今回は、
- あんぱん千代子のその後は?
- 千代子のモデル・柳瀬キミの晩年の史実とは?
について詳しく深掘りしていきます!
※本記事は、朝ドラ「あんぱん」の今後の展開を含む可能性がありますのでご注ください。
【あんぱん】千代子のその後はどうなった?

朝ドラ「あんぱん」では、柳瀬千代子(戸田菜穂)は高知にそのまま住み続け、70歳〜80歳くらいで亡くなったことになっています。
あんぱんで描かれた「千代子さん」の時系列は以下の通りです。
| 年代(年齢) | 出来事 |
|---|---|
| 1924年(25歳) | 千尋の養母になる |
| 1939年(40歳) | 夫・寛が亡くなる 柳井医院を閉じる |
| 1944年(45歳) | 子・千尋が亡くなる |
| 1947年(47歳) | 嵩が結婚、お祝いに駆けつける |
| 1967年(68歳) | 「やさしいライオン」のラジオドラマ放送 羽多子が高知から東京へ |
| 1976年(77歳) | のぶたちが高知旅行にやってくる |
| 〜1985年(〜86歳) | 生涯を終える |
※千代子さんの生年月日については詳しい情報がなく、夫と5歳違いという年齢で設定しました。
「あんぱん」での千代子さんの晩年に注目して詳しく見ていきましょう。
1967年:ラジオに耳を傾ける千代子さん
母犬ムクムクと、孤児のライオン・ブルブルの物語を描いた「やさしいライオン」。
このラジオドラマが放送された際、千代子さんが「ブルブル・・・」と呟きながらラジオ放送に耳を傾けるシーンが描かれました。
このシーンから分かることは、千代子さんはその後も「後免与町の家に住んでいる」ということでした。
同じ頃、後免与町にいた羽多子ものぶたちと同居するために上京しています。
このような状況から察するに、千代子さんは「寂しい老後」を送っていたように感じます。
1976年:のぶたちと交流する千代子さん
ミュージカル「怪傑アンパンマン」が盛況に終わった頃、登美子・羽多子・のぶが高知旅行に行くことになります。
この時、のぶの母・羽多子は、
羽多子(のぶの母)千代子さんとのぶと、女4人、カツオで一杯やりましょ。
と語っていました。
この頃の千代子さんは70歳前後と思われますが、その後も御免与町で暮らしていることが伺えます。
寝たきりなどではなく、一緒にカツオなどを楽しめるほど元気だという近況も伝わってきます。
〜1985年:アニメ化の前に亡くなっている
あんぱん最終週では、「千代子・羽多子・登美子が天国に旅立った」ことが描かれます。
1985年、メイコは3人の写真を見ながら、「3人がもういない」ことが語られるのです。



3人とも美人やったね。向こうで仲よくしとるやろうか。
このことからも、高知旅行(1976年)からの約10年のうちに、千代子を含めた母親たちが亡くなっていることが分かります。
晩年の年齢は、70代〜80代と思われますので、大往生と言えるのではないでしょうか。
その後、1988年にはアンパンマンのテレビアニメ化が実現しています。
嵩が一躍有名になる瞬間を見られなかったのは残念ですが、きっと天国で喜んでいることでしょうね。
やなせたかしの伯母・柳瀬キミの晩年の史実とは?


柳瀬キミさんに関する晩年の情報はほとんどなく、どこで何歳で亡くなったかも不明です。
「あんぱん」千代子のモデル・柳瀬キミさんについて詳しく見ていきましょう。
京都出身の美人
柳瀬キミさんは、京都出身で、京都の新京極にある菓子屋の娘でした。
やなせたかしさんの元秘書・越尾正子さんによれば、
この向こうあたりにごめんのお袋の家があった。菓子屋といっても菓子問屋で、お寺にお供えするお菓子を下ろしていたので、ブリキ缶が部屋中に積み上げられていた。
出典:やなせたかし先生のしっぽ(越尾正子)
と著書で語られています。
夫の柳瀬寛さんとは、寛さんが医師を目指す為に「京都医専」に通っていた時に出会い、結婚。
二人は恋愛結婚だったということですね。
そんな柳瀬キミさんはどんな人柄だったのでしょうか?
柳瀬医院の近所の方によれば、「京都の人だから家にはいつもお菓子がたくさんあった」「当時は珍しいコーヒーやジュースもあった」と語られています。
他にも、柳瀬キミさんは、
- 京都弁の美人
- おしゃれな髪型
- 音楽が好き
などの一面もあったようです。
美人で人当たりがよく、文化的な女性だったことが伺えますね。
文字が書けなかった
しかし、医者の妻になるにあたり、柳瀬キミさんはプレッシャーも感じていたようです。
なぜなら、芸事の稽古ばかりで文字を習っていなかったためです。
やなせたかしさんは、「文字の練習をさせられていて、柳瀬キミさんが可哀想だった」とも語っていたのです。
「ごめんのお袋は、京都の商家の娘だったので琴や三味線の稽古の方が優先されてあまり文字を習っていなかった。親父に、医者のうちなのながら、琴や三味線をあまり弾くなと言われ、その代わり文字の練習をさせられた。その練習したノートが押し入れにいっぱいあった。それを見るとかわいそうだった」
出典:やなせたかし先生のしっぽ(越尾正子)
と言った。
「あんぱん」での寛さんは、妻を愛する優しい旦那さんなイメージでしたが、実際には、厳しい一面もあったのかもしれませんね。
一方で、柳瀬キミさんは、琴や三味線などが上手だったこともあり、「音楽好き」との印象が持たれていた点とも繋がります。
姑との関係
やなせたかしさんは、幼い頃、夏休みになると千尋さんと一緒に父親の実家(朴ノ木)に遊びに行っていたそうです。
当時、柳瀬家の実家には、おばあちゃん(父方の母)が一人で住んでいました。
このおばあさんはとてもいい人で、
「お母さん(キミさん)はね、京都から知っている人がいない高知に一人できたのだから、大事にしてあげなさい」
とやなせたかしさんに言ってくれていたんだとか。
寛さんが同居の声がけをしたことがあったようですが、「お墓を守りたい」と転居することはなかったそうです。
伯父さんが、「町に来て一緒に暮らせば」と誘っていたが、「朴ノ木を離れると、お墓を守る人がいなくなるから」と言って、町で一緒に暮らそうとはしなかった。
出典:やなせたかし先生のしっぽ(越尾正子)
とはいえ、お嫁さんに気を遣わせるのが嫌だった可能性も考えられますよね。
柳瀬キミさんは、医者の妻としてのプレッシャーはあったにせよ、お姑さんと良い距離感で交流できていたのは良かったのかもしれません。
気の毒なキミさん
大切に育てた千尋さんの訃報は、柳瀬キミさんにとって大きな悲しみとなりました。
当時の様子について、「生き残って帰ってきた千尋さんの友人に会うと泣き崩れた」と語られています。
お母さんが親父の姿を見て、泣き崩れたそうです。
出典:慟哭の海峡(門田 隆将)
ひょっとしたら、親友の仙頭さんも一緒だったかもしれません。
親父たちはもう、かける言葉がなかったそうです。
親父は小さな時から柳瀬さんのところに遊びに行ってましたから、余計、お母さんが柳瀬さんのことを思い出されたんじゃないでしょうか。
親父がよく言っていたのは、〝俺が行ったら、顔を見るたびにお母さんが泣き崩れる。気の毒でよう行かんなった〟と……。あまり訪ねていくことができなくなったようです
自分が家を訪ねることで千尋さんを思い出させてしまうことが気の毒だったようです。
もしかしたら、やなせたかしさん自身も「千尋を思い出してしまう」という気持ちから、少しずつ伯母さんと疎遠になってしまった可能性がありますね。
暢さんとの交流
朝ドラ「あんぱん」でも、やなせたかしさんの著書でも、東京に出てきてからの「伯母さん」との関わりがあまり描かれていません。
完全に疎遠になってしまったのかと思われましたが、実際にはそんなことはなかったようです。
やなせたかしさんの元秘書・越尾正子さんによれば、妻・暢さんが伯母さんとよく交流していたことが分かっています。
1949年(昭和24)年に二人は入籍した。
出典:やなせたかし先生のしっぽ(越尾正子)
この時、奥さんがやなせ先生の実のお母さんと会ったかはどうかはよく分からない。ただ、ごめんのお母さん(やなせ先生の伯母)とは会っていろいろ話していたようだった。
「あんぱん」でも、のぶが高知に旅行で会いに行くというエピソードがあったので、「義理のお母さん」として積極的に関わろうとしていたのかもしれません。
晩年については不明
しかし、残念ながら、柳瀬キミさんの晩年については情報がありませんでした。
そのため、
- そのまま高知に住み続けたのか?
- 何歳で亡くなったのか?
などの詳しいことはわかっていないのです。
やなせたかしさんの実母・登喜子(登美子のモデル)は、晩年は高知に住み、茶道教室を開きながら近所の子供の世話をし、その後1967年に亡くなったことがわかっています。
やなせたかしさんの母(柳瀬登喜子)さんの晩年についてはこちらの記事をどうぞ。


柳瀬キミさんも自活の道を進んでいたとすれば、琴や三味線などの先生として教室を開いていた可能性もゼロではないでしょう。
もしくは、出身地である京都に戻り、親族に看取られながら晩年を過ごしていた可能性も考えられますね。
※詳しい情報が入りましたら追記していきます。
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