朝ドラ「ばけばけ」では、小学校に通えなくなった主人公・トキが「織子」として働き始めます。
その職場とは、「雨清水織物(うしみずおりもの)」。
トキの親戚(モデル:小泉湊)が創業した会社であり、士族の娘たちを集めて職を与えていました。
そんな織物工場のモデルは松江に実在したのでしょうか?
そこで今回は、
- ばけばけ「雨清水織物」のモデルは実在?
- 小泉湊の織物工場の現在は?その後どうなった?
について詳しく解説していきます!
※本記事には、朝ドラ「ばけばけ」の今後の展開が含まれる可能性があります。
【ばけばけ】トキの職場「雨清水織物」のモデルは松江に実在?

「雨清水織物」のモデルは松江に実在していましたが、会社名や場所、規模などの詳しい記録は残っていません。
詳しくみていきましょう。
雨清水傳のモデルは小泉湊
「ばけばけ」に登場する名家・雨清水家の実在モデルは、「小泉家」です。
小泉家は、代々300石の禄を受ける松江の藩士であり「上級武士」でした。
その当主である小泉湊(こいずみ・みなと)が、堤真一さん演じる雨清水傳(うしみず・でん)のモデルです。
小泉湊さんは、藩の習兵所で取締役を務める人物で、松江の人々から「小泉様」と尊敬されていました。
そんな小泉湊さんですが、武士の世が終わった後はビジネスに力を入れていきます。
明治初期に松江で「織物工場」を創業したのです。
記録によれば、1875年(明治8年)に家禄の5/8を奉還したことで得た680円などを創業資金としたのです。
このほか、家禄撤廃の代償として払われた金禄公債も活用していたことが判明しています。
雇用を生んだ織物工場
「ばけばけ」の松野トキのモデル・小泉セツさんは、1879年からこの織物工場の織子として働いていました。
そのため、小泉湊さんの機織りの会社は、1877年〜1878年ごろに創業したものと考えられます。
1875年(明治8年) | 家禄の一部を奉還 |
---|---|
1877年(明治10年) | 家禄公債をもらう |
1878年(明治11年) | 織物工場を創業? |
1879年(明治12年) | 小泉セツが織子として働き始める |
困窮する士族の娘たちを集めて、多くの雇用を生み出した小泉湊さんの会社。
出来た反物は、松江から大阪方面まで広く売り捌かれたと記録されています。
会社の名前などの記録はない
しかしながら、「雨清水織物」のモデルである小泉湊さんの織物会社については、会社の登記などの公的な情報がほとんど見つかっていません。
そのため、
- 会社の名前
- 会社の場所
- 会社の規模
などの詳細は不明となっています。
書籍「八雲の妻・小泉セツの生涯」にも、「(会社について)手がかりがない」と記載されています。
セツが機を織った実父の会社について、何らかの資料的な裏付けを求めて、明治十五年から二十年までの『山陰新聞』のマイクロ・フィルムを操り、島根県立図書館や島根大学附属図書館の郷土資料、それに松江地方法務局の会社登記の記録などに当たってみたが、直接的な手懸かりは得られなかった。
引用:「八雲の妻・小泉セツの生涯」(長谷川洋二)
当時は、資料に残されなかった「中小の機織会社」も多かったとされています。
そのため、小泉湊さんが興した会社についても、その多くの中に埋もれてしまった可能性が高いでしょう。
小泉湊の織物工場の現在は?その後どうなった?

小泉湊の会社は、同業種が増えたことにより業績が悪化し、1886年頃には倒産したことが判明しています。
10年足らずで廃業
小泉湊さんの織物工場は、当初は順調は業績を上げていたようです。
しかし、同じような形態の会社が多く現れてくると、次第に陰りを見せていきました。
小泉セツさんが18歳になる頃(1886年)には、ついに倒産しています。
創業したのが1878年とすれば、10年未満で廃業してしまったことになります。
当時、全国各地の士族の機織会社のほとんどは倒産に追い込まれていることから、時代の流れ的なものだったと言えるでしょう。
そのため、小泉湊さんの会社は一代限りであり、現在は全く痕跡は残されてないということです。
織子時代の品
その一方で、織子として小泉セツさんが働いていた時代の「織見本帳」は残されています。
小泉セツさんは、自分が織り上げた布地の端切を長面に貼り付けて、見本帳を作っていたのです。
見本帳は、現在、松江市にある「小泉八雲記念館」で実際に見ることができます。
セツの織見本帳のページ(小泉八雲記念館のHP)はこちら。
結局会社は倒産してしまいますが、約7年間もの間、小泉セツさんの家計を支える助けになったことは間違いありません。
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