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ばけばけ白鳥倶楽部の実在モデルは土手倶楽部?どこにあったのか史実を深掘り【松江】

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小泉八雲夫妻をモデルにした朝ドラ「ばけばけ」。

主人公の幼馴染・野津サワは、小学校の教師を目指して「白鳥倶楽部」という場所で猛勉強しています。

この「白鳥倶楽部」には実在モデルがあるのか気になりますよね!

そこで今回は、

  • ばけばけの「白鳥倶楽部」は史実?モデルは?
  • 「土手倶楽部」は松江のどこに実在した?

について詳しく解説していきます。

目次

ばけばけの「白鳥倶楽部」は史実?モデルは「土手倶楽部」か

白鳥倶楽部のイメージ

結論からお伝えすると、

「白鳥倶楽部」という名前の施設は、明治中期の松江には存在していません。

しかし、当時の松江には、

土手倶楽部(どてくらぶ)

という似た名前の場所が実在していました。

ドラマで「土手」から「白鳥」へ名前を変えたのは、松江が日本有数の白鳥の越冬地であることが由来だと考えられます。

また、今は苦労している「野津サワ」が、やがて美しい白鳥となって羽ばたく姿を象徴しているようにも感じます。

「土手倶楽部」とはどんな場所だった?

明治時代の社交場のイメージ

「白鳥倶楽部」のモデルと思われる「土手倶楽部」。

明治時代の文献などを調べると、

教育関係者の拠点でもあり、ハイカラな社交場

であったことが分かってきました。

小泉八雲(ヘブンのモデル)や西田千太郎(錦織友一のモデル)も実際に訪れています。

銀行の支店長がリノベーション

「土手倶楽部」の実物は、かなり豪華な建物だったことが分かっています。

大正から昭和にかけて活躍した社会事業家・福田平治氏の自伝には、その成り立ちがはっきりと記されています。

……外中原土手通りに松浦利助の所有せし宍道湖北岸に天然の勝景を占めて奇を凝らし贅を尽して建築せる水亭を、時の第三銀行松江支店長増山正直氏が買収し更に改修増築して之れを土手倶楽部と称し専ら高等官級の使用に提供した。

出典:福田平治翁自伝

もともとは、松浦利助という人物が所有していた豪華な水亭(水辺の別荘)でした。

それを、明治10年代後半〜20年代前半に第三銀行の支店長が買い取ってリノベーションし、「土手倶楽部」と名付けたことが判明しています。

設立の目的は、「高級官僚」や「地位の高い役人クラス」を接待する施設でした。

教育会の拠点として

一方で、明治中期の「島根県私立教育会雑誌」の記録からは、ここが松江の教育者たちの「総本山」であったことが読み取れます。

来ル十八日午後二時ヨリ土手倶楽部ニ於テ開ク……
島根県私立教育会員 発起人惣代 西田千太郎……

出典:島根県私立教育会雑誌(明治24年5月)

ここにはっきりと、ドラマの重要人物のモデルである西田千太郎(小泉八雲の親友)の名前があります。

土手倶楽部では、私立教育会の理事会などの会合が開催されていました。

つまり、島根の教育関係者がよく出入りする場所だった(拠点?)ということです。

「ばけばけ」で、教師を目指す親友・サワが「白鳥倶楽部」に出入りして、試験勉強するという設定です。

それは、「教育会の拠点(=先生たちが集まる場所)」だったという史実に基づいたものだと考えられます。

実際に、教師を目指す人が情報収集に訪れたり、勉強しに来たりしていた可能性も少なくありません。

小泉八雲も訪れた社交場

さらに、「土手倶楽部」がモデルと思われる決定的な証拠としては、小泉八雲もこの施設を訪れていたことです。

十一月二十七日
島根県師範学校教頭坪井が和歌山県師範学校に転任することになり土手倶楽部でその送別会が開かれ八雲も出席する

出典:県令籠手田安定

ヘブンのモデルの小泉八雲は、松江時代、島根師範学校の坪井教頭の送別会に参加するため、土手倶楽部に訪れていました。

さらに「西田千太郎の日記」にも、他の教育関係者の送別会が「土手倶楽部」で開催され、県知事も参加したことが記されていました。

一月十七日(風雪)
近来稀(きんらいまれ)ノ積雪ニシテ一尺五六寸……(中略:生徒の兎狩りの話)……予ハ病後ユヘ同行セズ。 ヘルン氏ノ病ヲ訪フ、小酌(しょうしゃく)。 劉氏ノ送別会ヲ土手倶楽部ニ開クニ参会ス。県知事以下凡(およそ)二十名。

引用:松江北高等学校百年史

単なる教員の集まりだけでなく、県知事クラスのVIPが訪れるような社交場や接待の場所でもあったことが分かります。

サワがここに通うということは、相当な「度胸」と「向上心」がある設定だと言えますね。

「土手倶楽部」は松江のどこに実在した?

湖畔に佇む建物

当時の記録では、土手倶楽部の場所は

外中原(そとなかばら)土手通り

にあったと記されています。

※一部資料では「中原倶楽部」と記載されているものもあり。

残念ながら、それ以上の詳しい場所は不明であり、現存はしていないようです。

「土手倶楽部」が実在したのは、現在の松江の地図で言うと、松江城の西側エリア

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