2025年前期の朝ドラ「あんぱん」。
あんぱん第14週「幸福よ、どこにいる」では、のぶが「月刊くじら」という月刊誌の創刊に携わる展開となります。
そんな高知新報の「月刊くじら」とは実在したのでしょうか?
そこで今回は、
- あんぱん月刊誌「月刊くじら」のモデルは実在する?
- やなせたかしが雑誌の表紙を描いた史実とは?
について詳しくご紹介していきます!
朝ドラ「あんぱん」の今後の展開を含む可能性がありますのでご注意ください。
【あんぱん】月刊誌「月刊くじら」の実在モデルは?

高知新報の「月刊くじら」の実在モデルは、高知新聞社がかつて発行していた月刊誌「月刊高知」である可能性が高いです。
詳しく見ていきましょう!
夕刊の代わりに創刊した雑誌
朝ドラ「あんぱん」で、ヒロイン・のぶや嵩が入社する新聞社のモデルは「高知新聞社」です。
史実では、小松暢さんとやなせたかしさんは「月刊誌の編集部」に配属されています。
当時、高知新聞社が月刊誌の出版に踏み切ったのはある理由がありました。
高知新聞社は戦時下に休刊していた夕刊を復活させるために、「紙の配給」を政府に申請していました。
しかし、ライバル紙の申請が先に通ってしまったため、夕刊発行は断念。
その代わりに、「今までにない雑誌作ろう」ということになったのです。
「月刊高知」の創刊
この史実を元に、朝ドラ「あんぱん」が描かれているとすれば、「月刊くじら」のモデルは実在した月刊誌「月刊高知」である可能性が高いです。
「月刊高知」のコンセプトは、
- 地方文化の確立
- 県内事情が一読で分かるもの
でした。
そのため、旬の人物へのインタビュー、小説、エッセイ、漫画なども盛り込まれ、娯楽性の高い雑誌として誕生しました。
創刊号の「1946年7月号」は、わずか2日で完売。
その後、1950年9月号で廃刊するまで4年2ヶ月間もの発行され、最盛期は10,000部も売り上げたそうです。
たった4人の編集部
「月刊高知」の編集部員は、たったの4人から始まりました。
やなせたかしさんに至っては、入社して1ヶ月も経たずにすぐに月刊誌の編集部に配属されています。
創刊時のメンバーがこちらです。
- リーダー・青山茂(38歳)
- 部員・品原淳次郎(21歳)
- 部員・小松暢(28歳)
- 部員・やなせたかし(27歳)
リーダーを除いては、新人記者ばかり。
そのため、客員として「上田秋夫さん」という記者がサポートに入り、原稿のチェックやマネジメントをしていました。
「月刊高知」は、男性陣3名が順番に編集長を務めるスタイルで、小松暢さんは速記を活かして対談をまとめたり、女性向けの特集を担当。
亡き夫が遺してくれたライカのカメラで写真撮影も担当していたそうです。
史実では、この編集部での出会いが小松暢さんとやなせたかしさんの馴れ初めでした。

やなせたかしさんは月刊誌の表紙の絵や漫画も!

マルチな才能を発揮
当時、やなせたかしさんは、「月刊高知」の取材や執筆だけでなく、
- 小説の挿絵
- 取材相手の似顔絵
- 漫画の連載
- ドレスの型紙作り(付録)
- お正月のスゴロク作り(付録)
などマルチに活躍して、その才能を発揮していました。
「月刊高知」には小説も掲載していましたが、締切を守れない作家が出てくると「名和梨夫(なわなしお)」というペンネームで小説まで執筆。
創刊号では、「キュウリ婦人伝」というキュリー夫人と野菜のキュウリを絡めたギャグ漫画を掲載し、進駐軍から警告を受けるというハプニングもあったんだとか・・・。
のぶさんに似た女性の表紙
また、雑誌の顔となる「表紙のイラストやデザイン」もやなせたかしさんが手がけていました。
高知出身の漫画家・横山泰三さんに依頼をしていたのですが、締切に間に合わずにやなせたかしさんが代役を務めたことがきっかけでした。
その後、計8回に渡り「月刊高知」の表紙を担当。
表紙のイラストはいずれも女性がモデルで、初期の頃の女性は「小松暢さんにどことなく似ている」と言われています。

小松暢さんとやなせたかしさんの写真
二人の距離がギュッと縮まったのは、創刊号を発売した直後の1946年7月末の東京取材でした。
小松暢さんへの恋心や愛情が、自然と画風に現れてしまったのかもしれません。
二人が残した編集後記
メンバーの1人であった小松暢さんは、1946年11・12月合併号を最後に高知新聞社を退社しています。
その時の編集後記には、名残惜しい気持ちが記されていました。
思えば”月刊高知”は熱い盛りの七月に誕生して子供になれない若い父母に育てられつつも皆様に可愛がられて早や五ヶ月になりました。
「やなせたかしはじまりの物語」(高知新聞社)より
近頃はよく笑います。
私のような無経験な乳母の手にかかりながらもすくすくと成長してゆく”月刊高知”への愛着はひとしおです。
一方、やなせたかしさんはその約半年後に退社するにあたり、月刊高知の1947年6月号にこのような言葉を残しています。
僕は月刊高知から去ることになりました。
「やなせたかしはじまりの物語」(高知新聞社)より
かねて考えていたことで、もう一度出発点にかえり振り出しからやり直してみるつもりです。
この雑誌を通じて知己になった本当にいい友人たちと別れることも、せっかくやり始めた雑誌の仕事と別れるのも、耐え難くさみしい思いがしますが、生きてさえいればまた会えるというものでしょう。
二人にとって高知新聞社の月刊高知の編集部で過ごした時間は、人生における大切な一部となっていたことが分かりますね。
そんなやなせたかしさんは、退社後も高知新聞社や当時のメンバーとの交流を継続。
高知新聞社主催のイベントの審査員を務めたり、エッセイを掲載するなど、亡くなるギリギリまで地元に貢献したそうです。
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