やなせたかし夫婦をモデルにした朝ドラ「あんぱん」が人気ですね。
あんぱん第12週「逆転しない正義」では、中国福建省に上陸した柳井嵩(モデル:やなせたかし)。
上司から命じられて宣撫班(せんぶはん)となり、「紙芝居」を作るシーンが描かれます。
そんな紙芝居のエピソードは、やなせたかしさんが実際に戦地で経験した”実話”に基づいています。
そこで今回は、
- やなせたかしが経験した宣撫班(せんぶはん)とは?
- やなせたかしが作った紙芝居「双生譚」の史実は?
について詳しくご紹介していきます!
やなせたかしが中国で経験した宣撫班(せんぶはん)とは?

「宣撫班(せんぶはん)」とは、占領した地域の住民の敵対心を和らげるための宣伝活動などを行う専門チームでした。
宣撫班の仕事
戦地における「宣撫班」の仕事は、「私たちはあなた方の味方です」とアピールして民衆の心を和らげる(治安維持)するために行われていました。
具体的には、以下のような活動が実際に行われたことが記録されています。
宣撫班の仕事
- ビラ・ポスターを配る
- 映画・紙芝居・演劇を見せる
- 食料を配る
- 医師を派遣する
中国大陸で水路を移動し、沿岸の良民に宣撫米を配給する日本の砲艇隊 pic.twitter.com/tks0HZTX54
— 和中 光次(わなか みつじ) (@111g0) August 24, 2024
このような宣撫班には、日本人だけではなく中国語を話せる中国人も参加していたようです。
やはり言葉が通じなければ宣撫活動が難しかったのでしょう。
やなせたかしは宣撫班と暗号班を兼務
史実では、やなせたかしさんは「宣撫班」と「暗号班」を兼務していました。
メインの業務は、「暗号班」で、本部から暗号で入ってくる指示を解読する仕事。
しかし、そのような暗号の連絡が頻繁に来るわけもなかったので、時間があるときには宣撫班の仕事を手伝っていたそうです。
絵を描くのもストーリーを考えるのも得意なことが買われ、「紙芝居を作れ」と上司に命じられたんだとか。
壁画も描いたやなせさん
他にも、宣撫活動の一環で、民家の壁にチョークで大きな絵を描いたこともあったそうです。
やなせたかしさんが描いたのは、「日本軍が米軍をやっつけているシーン」でした。
部隊からも好評で、集まってきた村民たちも喜んで壁画を見ていたそうですが、師団長から厳しい忠告を受けてしまいます。
村人の財産である家を汚すなど、とんでもない!
落書きとは何事か!
師団長はルールに厳しく、民家を荒らしたり傷つけたりすることに口うるさい人だったんだとか。
しかし、そんなトップの人間性が功を奏して、やなせさんたちの部隊は住民を傷つけたり、略奪行為をするなどの悪事をせずに済んだのでした。
やなせたかしの紙芝居「双生譚」が大ウケした史実!

史実においても、やなせたかしさんは亡き父の言葉をヒントにして「双子の物語(双生譚)」の紙芝居を披露していたそうです。
詳しく見ていきましょう。
大きな模造紙で作った紙芝居
「紙芝居」といえば、分厚い紙に描かれた絵をシーンごとにめくっていくもの。
しかし、戦地での紙芝居は、大きな模造紙を使用していたそうです。
模造紙に何枚も絵を描き、上の方を竹の棒で挟んで留める。
そのような「めくり式」の大きな紙芝居を作って民衆に披露していました。
紙芝居の題名は「双生譚」
やなせたかしさんが実際に作った紙芝居の題名は「双生譚(そうせいたん)」。
朝ドラ「あんぱん」の嵩と同じく、亡き父・清さんが残した文章の
”東亜の存立と日中親善は双生の関係である”
という一節から思いついたストーリーでした。
やなせたかしさんの父親は、中国との関わりが深い人物でした。

東亜同文書院(上海)で学生生活を送り、朝日新聞の特派員時代も中国(広東)で暮らしていたためです。
中国への愛が深く、やなせたかしさんが生まれた際には、中国五大名山「嵩山(すうざん)」から「嵩」という名前を命名しています。
そのため、中国という国は、やなせたかしさんにとっては父の面影を感じられる場所でもありました。
”日本と中国は双子の兄弟なのだから仲良くしなければいけない”
やなせたかしさんが紙芝居に込めたメッセージは、父が遺した想いを多くの人に伝えたいという気持ちから生まれたのかもしれません。
紙芝居は大ウケで大人気
そんなやなせたかしさんが作った紙芝居の反応はどうだったのでしょうか?
朝ドラ「あんぱん」と同じように、現地の人に大ウケだったそうです。
しかし、笑うシーンではないところでも、なぜそこまで爆笑されるのか不思議に思っていたんだとか。
やなせたかしさんは紙芝居を日本語で話し、中国人の通訳が現地の言葉に直して話す。
やなせたかしさんは「おそらく通訳が勝手に話を変えて語っているのだろう」と思っていたそうです。

歓迎ムードでも実際は・・・
娯楽が少なかったこともあり、やなせたかしさんの紙芝居はどこの村でも歓迎されていました。
しかし、「紙芝居を観にくるのは老人か子供しかいない」ことに気づいていました。
どんなに多くの観衆が集まっていても、若い女性を全く見ることがなかったそうです。
表向きは平穏そうに見えても、現地の人たちにしてみれば、「敵国の部隊が長期間とどまっている」という事実。
若い女性たちは、事件やトラブルに巻き込まれるのを避けるため、家から出ないように徹底していたのでしょう。
紙芝居を披露して回っていたやなせたかしさんは、住民から中国茶やお菓子でおもてなしされることも多かったそうです。
しかし、それは本当に歓迎されていたわけではなく、日本軍を怒らせず、村を平穏に保つための策の1つだったのかもしれません。
まとめ
今回は、朝ドラ「あんぱん」のエピソードから、やなせたかしさんが中国で行っていた宣撫班の仕事や紙芝居の史実についてお伝えしました。
やなせたかしさんはこのように暗号班や宣撫班などの仕事を任されていたため、戦線で実際に危ない目に遭うようなことは少なかったようです。
父が愛した中国という国で、「きっと父の霊が自分を守ってくれたのだろう」と後に語っています。
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