朝ドラ「ブラッサム」の放送で注目されている宇野千代さんの人生。
4度の結婚と離婚を経験している宇野千代さんですが、最初の夫と二番目の夫は、なんと「いとこ」の兄弟でした。
1回目の結婚相手・藤村亮一とは家同士が決めた結婚であり、2回目の結婚相手・藤村忠は恋愛結婚でした。
この記事では、
- 宇野千代と従兄弟の家系図は?
- 宇野千代のいとこ・藤村亮一とその後は?(最初の夫)
- 宇野千代のいとこ・藤村忠とその後は?(二番目の夫)
について詳しく解説していきます!
宇野千代と従兄弟の家系図は?

宇野千代さんの実母は、岩国の藤生町の土井家の四女・土井トモさんです。
トモの姉・土井カツは、岩国の鉄砲小路に住む藤村武吉のもとに嫁ぎ、2人の息子をもうけました。
- 長男:藤村亮一さん
- 次男:藤村忠さん
この2人が、宇野千代さんのいとこ(従兄弟)にあたる兄弟です。
宇野千代さんは生涯で4度結婚していますが、そのうち最初と二番目の相手が、この従兄弟の兄弟でした。
| 順番 | 結婚相手 | 職業(当時) | 時期 |
|---|---|---|---|
| 1 | 藤村亮一 | 学生 | 1911年 |
| 2 | 藤村忠 | 銀行員 | 1919年〜1924年 |
| 3 | 尾崎士郎 | 小説家 | 1926年〜1930年 |
| 4 | 北原武夫 | 記者・小説家 | 1939年〜1964年 |
なお、宇野千代さんの実母・土井トモは千代さんが2歳になる前に肺結核で亡くなり、父・俊次はその後、17歳のリュウを後妻に迎えています。
宇野千代のいとこ・藤村亮一とその後は?(最初の夫)
結論から言うと、宇野千代さんのいとこ・藤村亮一さんは、次のような人物でした。
- 14歳の宇野千代さんと結婚したが、千代さんが出戻ってすぐ離婚
- 若い頃から飲み歩き、受験に失敗する
- 浅草の寄席で働きながら女と同棲
- 結核を患い、24歳の若さで永眠
詳しく見ていきましょう。
藤村亮一のプロフィール
| 名前 | 藤村 亮一(ふじむら りょういち) |
|---|---|
| 生年 | 1894年(明治27年)頃 ※推定 |
| 没年 | 1918年(大正7年)/享年24 |
| 出身 | 山口県岩国(鉄砲小路) |
| 父 | 藤村 武吉 |
| 母 | 藤村 カツ(旧姓・土井)※千代の実母トモの姉 |
| 兄弟 | 弟・藤村 忠 |
| 学歴 | 中学校卒業 |
| 千代との関係 | いとこ/最初の夫 |
| 婚姻期間 | 1911年(明治44年)11月〜数十日間 |
| 死因 | 結核 |
わずか10日で終わった結婚
1911年(明治44年)11月、14歳の宇野千代さんは、従兄に当たる藤村亮一さんと結婚しました。
この結婚は、千代さんを気に入った伯母・藤村カツと、病を患っていた父・俊次が勝手に段取りしたもので、本人たちの気持ちよりも家同士の都合で決まった縁談でした。
しかし、千代さんは婚家の空気になじめず、さらに亮一さんが夜遊び(女遊び)をしていたこともあって、わずか10日ほどで実家へ帰ってしまいます。
そのまま父の看病をして最期を看取り、藤村家に戻ることは二度とありませんでした。
ちなみに亮一さんは、千代さんの自伝的作品『生きて行く私』の中で、「藤村雄一」という名前で登場しています。
上京後の亮一
藤村亮一さんは離婚後、中学校を卒業し、すぐに上京しています。
東京で2〜3の学校を受験したものの、いずれも不合格。
宇野千代さんの記憶によれば、定職に就くこともなく、浅草の寄席でなんらかの仕事をしながら湯島天神裏の家に下宿していたといいます。
当時の亮一さんは、茶汲みをしていた女性と同棲もしていました。
1917年、千代さんと弟の忠さんが同じ下宿先で暮らすことになると、亮一さんは千代さんに「綺麗になったな」と声をかけたといいます。
『やァ、凄い別嬪になったじゃないか。』と一枝(千代)に声をかけたのちに、そばに敷いてあった寝床に寝ている女に向かって、『おい、譲二(忠)たちが来たぜ。』と言った。
引用:宇野千代「或る一人の女の話」
しかしそのわずか10日後、亮一さんは「また遊びに来るぜ」と言い残し、女性と引越ししてしまいます。
元妻や弟と同居するのが居心地の悪いものだったのか、弟が東京帝大に進むエリートとなって複雑だったのか、単純に部屋が狭くなったからなのか・・・亮一さんの心中は分かりません。
結核で24歳の若さで死去
引っ越してから約半年後、亮一さんは「肺結核」と診断されました。
療養のため八丈島へ渡りましたが、回復することはなく、1918年(大正7年)、24歳の若さで永眠。
千代さんは生前、忠さんと共に八丈島まで見舞いに訪れています。
そのとき目にした痩せ細った亮一さんの姿は、いつまでも千代さんの脳裏から離れなかったといいます。
風の吹きすさむ突堤に立って、別れを告げた経一(亮一)の、痩せさらぼえた姿を、一枝(千代)はながい間忘れなかった。
引用:宇野千代「或る一人の女の話」
わずかな結婚生活だったとはいえ、ご縁のあった相手の短い人生に、何を感じたのでしょうか。
藤村亮一の年譜
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1894年(明治27年)頃 | 藤村武吉・カツの長男として誕生 |
| 1911年(明治44年)11月 | 14歳の千代と結婚 約10日で千代が実家へ戻る |
| 年不詳 | 中学校卒業後に上京 2〜3校を受験するも不合格 |
| 年不詳 | 湯島天神裏の家に下宿 浅草の寄席で働き、茶汲み女と同棲 |
| 1917年(大正6年)頃 | 千代と忠さんが同じ家で暮らすことになり、約10日で転居 |
| 年不詳 | 結核にかかり、八丈島で療養 千代が見舞いに訪れる |
| 1918年(大正7年) | 死去(享年24) |
宇野千代のいとこ・藤村忠とその後は?(二番目の夫)
結論から言うと、宇野千代さんのいとこ・藤村忠さんは、次のような人物でした。
- 三高から東京帝大へ進んだ秀才で、生涯を通じて学究熱心だった
- 千代さんが自ら選んだ相手で、同棲を経て恋愛結婚した
- 穏やかな性格で、千代さんが好きな道に進むことを許した
- 離婚後は善浪ミツエさんと再婚し、2人の子に恵まれた
- 北海道拓殖銀行の監査役や証券金融会社の社長を務め、農学博士の学位も取得
- 1977年(昭和52年)、満81歳で永眠
晩年の藤村忠さんの顔写真がこちらです。

藤村忠のプロフィール
| 名前 | 藤村 忠(ふじむら ただす) |
|---|---|
| 生年 | 1895年(明治28年)頃 ※推定 |
| 没年月日 | 1977年(昭和52年)2月22日/満81歳 |
| 出身 | 山口県岩国(鉄砲小路) |
| 父 | 藤村 武吉 |
| 母 | 藤村 カツ |
| 兄弟 | 兄・藤村 亮一 |
| 最終学歴 | 東京帝国大学 |
| 学位 | 農学博士 |
| 主な職歴 | 北海道拓殖銀行 常勤監査役/北海道証券金融 社長/北海学園大学 教授 |
| 配偶者 | 宇野千代(1919〜1924年)/善浪ミツエ(1928年〜) |
| 子ども | 孝、悌子 |
| 千代との関係 | いとこ/二番目の夫 |
岩国での再会
藤村忠さんは亮一さんの弟で、京都の「第三高等学校(三高)」に通うエリートでした。
宇野千代さんと忠さんが近づいたきっかけは、伯母・藤村カツと、帰省中の忠さんが偶然居合わせたこと。
久しぶりに再会した忠さんは立派な青年となり、誰もが羨む「三高」の制服を着ていました。
千代さん自身も、当時は化粧映えする美貌の持ち主となり、お互いに気になる存在へと発展し、京都の忠さんから手紙が届くこともあったといいます。
長男の亮一さんとの離婚を経ても、伯母のカツさんは千代さんを気に入っており、「京都で忠の世話をしてくれないか」と提案するのでした。
京都での同棲から東京へ
1916年(大正5年)、19歳の千代さんは、忠さんを頼って京都へ向かい、そのまま「知恩院」という寺の一室で同棲をスタート。
結婚前だったため、周りに怪しまれないように「兄妹」として振る舞っていたようです。
翌1917年(大正6年)、忠さんが東京帝国大学に進学すると2人は一緒に上京し、一時は兄・亮一さんの下宿先に身を寄せました。
その頃、すでに故郷の藤村家の父(裁判所勤務)は退職。
実家からの仕送りは当てにならず、千代さんは生活費を稼ぐために、雑誌社の事務、家庭教師、レストランの給仕などの仕事を転々として、学生の忠さんを支えます。
しかしそれだけでは足りず、忠さんも学校を休んで役所で働いていたようです。
晩年になって、千代さんはこの東京の3年間を振り返って「泥棒と人殺し以外はなんでもした」と語るほどの厳しい日々でした。
正式に結婚し札幌へ
そんな辛い時期を二人で乗り越え、1919年(大正8年)、千代さんは忠さんと正式に結婚し、藤村姓となります。
翌年、夫の忠さんは東京帝国大学を卒業して北海道拓殖銀行に入行。
2人は札幌で新たな暮らしをスタートし、千代さんは家事のかたわら「藤村千代」として原稿を書くようになりました。
そして1921年(大正10年)、千代さんの短編『脂粉の顔』が「時事新報」の懸賞小説で一等に入選。
作家・宇野千代の人生が本格的に動き出したのです。
千代さんと忠さんの間に子供はいませんが、この頃に、千代さんは妊娠や流産を何度か経験しています。
千代が戻って来ず離婚
入選した翌年、東京の出版社に送った原稿の採否が気になった千代さんは、「すぐ戻る」と言い残して上京。
出版社「中央公論」にて、同じ懸賞で二等だった作家・尾崎士郎を紹介されます。
そのまま千代さんは夫が待っている札幌へは戻らず、尾崎士郎との同棲を始めてしまうのでした。
1924年(大正13年)、千代さんと忠さんは正式に離婚します。
宇野千代さんは生涯、自分の行動を後悔することがほとんどありませんでしたが、忠さんを捨てたこの一件だけは、唯一「相済まぬことをした」と悔い続けたといいます。
善浪ミツエと再婚
その後の藤村忠さんは、千代さんと離婚してから4年後の1928年(昭和3年)に再婚しています。
相手は、善浪ミツエという10歳年下の女性でした。
2人の間には、長男の孝さんと、長女の悌子さんが生まれ、温かい家庭を築いたのでした。
銀行役員から農学博士へ
仕事の面では、忠さんは北海道拓殖銀行で着実にキャリアを重ねました。
部長職を経て、1947年(昭和22年)に常勤監査役に就任。
1950年(昭和25年)に退任すると、北海道証券金融株式会社の社長に就任しています。
また、忠さんは銀行員時代から「不動産金融」に関する研究をコツコツと続けていました。
その成果をまとめた論文を北海道大学に提出し、1960年(昭和35年)に農学博士の学位を取得しています。
社長を退いたあとの1966年(昭和41年)から1976年(昭和51年)までの10年間は、北海学園大学経済学部で講師・教授として教壇に立ちながら、論文の発表も続けました。
81歳で死去
1977年(昭和52年)2月22日、忠さんは自宅の改築設計図を描いている最中に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
満81歳でした。
孫娘と千代の交流
晩年の宇野千代さんは、60年以上前に別れた忠さんが亡くなったことを、忠さんの孫(当時中学生・京都在住)からの手紙で知ることとなります。
忠さんが再婚したこと、子供がいて孫にも恵まれたことも初めて知った千代さん。
安心する気持ちと同時に、自分の過去の行いに震えるような気持ちになったと振り返っています。
千代さんはすぐにその女の子に自分の本を2冊送付しますが、その後は何も連絡が来ず、「まだ許されていないのか」と悲観的に受け取ってしまったようです。
女の子の家の人たちにとっては、あの優しい藤村悟を捨て去った女は許せない、といまでも私のことを思っているのではなかったか。
宇野 千代. 生きて行く私 (角川文庫)
(※自伝では実名の「忠」ではなく「悟」と表記)
「大学生になったら必ず千代さんに会いにいきたい」「祖父のことをもっと教えてほしい」と無邪気に綴られていたお孫さんからの手紙。
その後どのような事情があったのかは分かりませんが、音沙汰がないことが、千代さんの心に引っ掛かり続けていたことがわかります。
藤村忠は穏やかな人柄だった
神埜努さんの著書「宇野千代の札幌時代」によれば、息子の藤村孝さんの目から見た父は、次のような人だったといいます。
- 細かいことは言わない
- 感情をむき出しにせず、怒ることはめったにない
- 人に干渉せず、相手の人格を認める
千代さんが作家として好きな道を歩めたのも、忠さんのこうした性格があったからこそだと、孝さんは見ています。
一方で、忠さんは宇野千代さんとの生活について、家族に何も語らなかったそうです。
父の性格からすれば、離婚後はすっきりと割り切っていて、「千代さんを恨む気持ちはなかっただろう」と振り返っています。
藤村忠の年譜
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1895年(明治28年)頃 | 藤村武吉・カツの次男として誕生 |
| 1916年(大正5年) | 第三高等学校在学中、朝鮮から帰国した千代と京都で同棲 |
| 1917年(大正6年) | 東京帝国大学に入学し、千代とともに上京 |
| 1919年(大正8年) | 千代と正式に結婚 |
| 1920年(大正9年) | 東京帝国大学を卒業。北海道拓殖銀行に入行し札幌へ |
| 1921年(大正10年) | 千代が『脂粉の顔』で懸賞一等に入選 |
| 1922年(大正11年) | 千代と別居(千代は尾崎士郎のもとへ) |
| 1924年(大正13年) | 千代と正式に離婚 |
| 1928年(昭和3年) | 善浪ミツエと再婚。のちに孝・悌子が誕生 |
| 1947年(昭和22年) | 北海道拓殖銀行の常勤監査役に就任 |
| 1950年(昭和25年) | 監査役を退任し、北海道証券金融株式会社の社長に就任 |
| 1960年(昭和35年) | 不動産金融の研究論文で、北海道大学より農学博士の学位を取得 |
| 1966年(昭和41年) | 北海学園大学経済学部の講師に就任(のち教授) |
| 1976年(昭和51年) | 北海学園大学を退職 |
| 1977年(昭和52年)2月22日 | 自宅の改築設計図を描いている最中に倒れ、死去(満81歳) |
宇野千代のいとこ(従兄弟)に関するQ&A

宇野千代のいとこは誰ですか?
宇野千代さんのいとこ(従兄弟)は、藤村亮一さんと藤村忠さんの兄弟です。
この2人は、千代さんの最初の夫と二番目の夫でもあります。
宇野千代と従兄弟の藤村兄弟は、どういう血縁関係?
藤村亮一さんと藤村忠さんは、千代さんの実母・トモの姉であるカツの息子です。
宇野千代さんから見て、母方の従兄弟にあたります。
宇野千代が従兄弟と結婚したのは本当?
本当です。
宇野千代さんは、いとこの藤村亮一さんと1911年(明治44年)に結婚し、その後、亮一さんの弟で同じくいとこの藤村忠さんと1919年(大正8年)に結婚しています。
宇野千代はなぜ、いとこの藤村亮一さんとすぐに別れたの?
父・俊次が段取りした家同士の結婚で、千代さんが婚家の雰囲気になじめなかったことに加え、亮一さんが女遊びをしていたことが理由とされています。
千代さんは父の看病のために実家へ戻り、わずか10日ほどで結婚生活は終わりました。
宇野千代のいとこ・藤村亮一さんはその後どうなった?
上京後も定職に就かずに暮らしていましたが、結核にかかり八丈島で療養。
1918年(大正7年)、24歳の若さで亡くなりました。
千代さんと忠さんも一度見舞いに訪れています。
宇野千代のいとこ・藤村忠さんはその後どうなった?
千代さんと離婚した4年後に再婚しています。
仕事面では、北海道拓殖銀行の常勤監査役、北海道証券金融株式会社の社長を歴任。
1960年(昭和35年)には農学博士の学位を取得し、北海学園大学で教鞭もとっています
1977年(昭和52年)、満81歳で亡くなりました。
宇野千代の従兄弟・藤村忠さんに子どもや孫はいる?
1928年(昭和3年)に再婚した善浪ミツエさんとの間に、孝さんと悌子さんの2人の子どもがいます。
悌子さんの娘(忠さんの孫)が、宇野千代さんに手紙を送ったというエピソードも残っています。
宇野千代は生涯で何回結婚した?
宇野千代さんは生涯で4回結婚しています。
相手は、いとこの藤村亮一さん、同じくいとこの藤村忠さん、作家の尾崎士郎さん、作家の北原武夫さんです。
まとめ:宇野千代のいとこは藤村亮一さんと藤村忠さん
宇野千代さんのいとこ・藤村亮一さんと藤村忠さんについて、ポイントをまとめます。
- 宇野千代のいとこ(従兄弟)は、藤村亮一さん・藤村忠さんの兄弟。千代の実母トモの姉・カツの息子
- 藤村亮一さんは最初の夫。家同士が決めた結婚で、千代はわずか10日ほどで実家へ戻った
- 亮一さんは上京後も定職に就かず、結核を患い八丈島で療養したが、1918年に24歳で死去
- 藤村忠さんは二番目の夫。京都・東京での同棲を経て1919年に結婚し、札幌で暮らした
- 千代が尾崎士郎のもとへ走り、1924年に離婚。忠さんは1928年に善浪ミツエと再婚した
- 忠さんは銀行役員・証券金融会社社長を歴任し、農学博士として大学でも教え、1977年に81歳で死去
朝ドラ「ブラッサム」でも、いとこ兄弟との結婚と離婚が描かれる予定です。
どこまで史実を再現するのか、どんな俳優が演じるのか注目していきましょう!
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参考文献
- 宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)
- 宇野千代『或る一人の女の話』(講談社)
- 神埜努『女流作家の誕生 宇野千代の札幌時代』(共同文化社)
- コスミック出版『宇野千代 咲き誇るその人生』



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