現在再放送中の朝ドラ「マッサン」。
舞台は大阪の「住吉酒造」へと移り、そこで登場したのは、相武紗季さん演じる田中優子(住吉酒造の娘)です。
マッサンと結婚するつもりで帰国を待っていたものの、マッサンは国際結婚してしまっており、失恋したような複雑なポジションとなります。
そんな「優子」の実在モデルはいるのでしょうか?
この記事では、
- 【マッサン】住吉酒造の娘・優子の実在モデルは誰?
- 【マッサン】優子のモデル(阿部まき)の史実とその後は?
について詳しく解説していきます。
【マッサン】住吉酒造の娘・優子の実在モデルは誰?

相武紗季さん演じる優子の実在モデルは、摂津酒造の長女・阿部まきさんである可能性が高いです。
「マッサン」に登場する大阪の「住吉酒造」のモデルは、かつて実在した「摂津酒造」だとされています。
「マッサンを娘の婿にしたい」という計画があった可能性は高いものの、実際には国際結婚を祝福してくれていたようです。
マッサンを婿養子に
摂津酒造の社長は、阿部喜兵衛さんです。(ドラマの田中大作)
実際、社長は竹鶴政孝(マッサン)の才能に惚れ込み、婿養子にしたがっていたという話があります。
マッサンこと竹鶴政孝さんをスコットランドに留学させました。
「将来の娘婿候補」や「後継者」として期待していたのですね。
しかし、その期待も外れてしまいます。
政孝さんから「スコットランド人と結婚する」という手紙が届きます。
そこで、政孝の家族から頼まれて身内の代表としてスコットランドまで会いに行ったのは、この社長でした。
もはや「マッサンの親代わり」と言ってもいいほど、この社長との絆が深かったということですね。
※史実では、マッサンたちが帰国する前に国際結婚の事実を知っていたということになります。
長女が酒造を引き継ぐ
マッサンでは、優子は一人娘のように描かれています。
しかし、記録によれば、摂津酒造には娘が3人いました。
| 長女 | 阿部まき |
|---|---|
| 次女 | ??? |
| 三女 | 阿部敏子 |
この長女「阿部まき」さんが、優子(相武紗季さん)のポジションであると推測できます。
なぜなら、阿部まきさんは、マッサンが帰国後に別の婿養子をもらい、父の酒造会社を引き継いでいるためです。
※マッサンがリタ(エリーのモデル)と結婚していなければ、まきと結婚し、摂津酒造の三代目の社長になっていたかもしれません。
ドラマのように、まきはマッサンの結婚を残念がっていた可能性はありますが、
- マッサンと婚約をしていた
- マッサンに退社を迫った
- 外国人の妻に意地悪をした
などの事実は確認できていません。
マッサンの「優子」という人物は、ドラマの上のスパイス的な存在として作られているようです。
むしろ、まきの父(社長)の方は、マッサン夫妻のために借家を手配し、そこに洋式トイレまで設置したと言われています。
【マッサン】優子のモデル(阿部まき)の史実とその後は?

阿部まきさんは、秋田出身のエリート・飯坂純次さんを婿養子にし、4人の子供を出産した後に亡くなっていることが判明しています。
重要なポイントをお伝えすると、
- マッサンとの縁談が消滅した2~3年後に結婚
- 4人の母となる
- 30代で亡くなってしまう
- 夫はまきの妹(敏子)と再婚
という流れです。
そんな優子のモデル・阿部まきさんの生涯を時系列で整理しました。
| 年号 (西暦) | まきの年齢(推定) | 内容 |
| 1918年 (大正7) | 10代後半 | まきの父・阿部喜兵衛が竹鶴政孝(マッサン)をスコットランドへ留学させる。 |
| 1920年 (大正9) | 20歳頃 | 政孝がリタを連れて帰国。 → 縁談は消滅? |
| 1921年 (大正10) | 21歳頃 | 飯坂純次(後の夫)が京都帝国大学を卒業し、摂津酒造に入社。 |
| 1922年 (大正11) | 22歳頃 | 政孝が摂津酒造を退社(ウイスキー計画の断念) |
| 1923〜24年頃 | 23〜24歳 | 飯坂純次と結婚。 長男が誕生。 |
| 1924〜30年頃 | 20代〜30代 | 4人の子供(祐三、成之助、哲三、伊都子)を出産。 この頃、まきが早世? |
| 1930年代 | – | 夫・純次が、まきの妹「敏子」と再婚。 |
| 1938年 (昭和13) | – | 夫・純次が摂津酒造の社長(三代目)に就任。 |
結婚相手は帝大卒のエリート
「マッサン」では、優子の婚約者として「海運会社の次男」が登場します。
史実では、結婚相手は秋田県の豪農の四男・飯坂純次さんでした。
まきの夫:飯坂純次(後の三代目・阿部喜兵衛)
- 出身: 秋田県の豪農(飯坂家)の四男。
- 経歴: 京都帝国大学(現・京大)経済学部卒のエリート。
史実では、マッサンとの縁談が破談(?)になった翌年に、この人物が摂津酒造に入社しています。
マッサンに代わる「会社を任せられる婿」として、白羽の矢を立てられた人物と言えるでしょう。
その後、飯坂純次さんは、23歳前後だった長女・阿部まきさんと結婚し、阿部純次に改名。
1938年(昭和13年)には、三代目の阿部喜兵衛(摂津酒造の社長)に就任しています。
4人の子を残して早世か
まきと純次の間には、4人の子宝に恵まれました。
| 長男 | 阿部祐三(後の四代目) |
|---|---|
| 次男 | 阿部成之助 |
| 三男 | 阿部哲三 |
| 長女 | 阿部伊都子 |
しかし、その後のまきの情報はありません。
そして、まきの夫の純次は、1930年代に再婚しています。
つまり、まきは子供を残し、早くに亡くなってしまった可能性が高いのです。(推定30代半ば)
さらに驚くべき史実は、夫の純次が、まきの妹である敏子と再婚している点です。
それは、まだ幼い子供たちを、「血の繋がった叔母である敏子さんに育ててほしい」という阿部家の願いがあったのかもしれません。
※ウイスキー文化研究所代表の土屋守さんの取材によれば、まきの長男・阿部祐三さんは「後妻である敏子氏(まき氏の妹)を実母と信じて育ち、後にそれを知って驚いた」という秘話が残されています。
優子のモデルであるまきは、短い生涯の中で「跡取り」を残し、妹にその後の家族と会社を託して旅立ったのでした。
「家族の絆」や「家を守る」という信念を感じるエピソードですね。
摂津酒造は宝酒造に合併
その後、摂津酒造はどうなったのでしょうか?
昭和の半ばに破産申請をし、大手の酒メーカー・宝酒造(現在の宝ホールディングス)に吸収合併されています。
マッサンが帰国した当時から摂津酒造は経営が厳しく、ウイスキー作りも叶いませんでした。
その後は、戦後の不況などの影響もあり、摂津酒造はついに1964年(昭和39年)に会社更生法の適用を申請(事実上の倒産)しています。
阿部まきさんの長男が四代目社長を務めていた時代であると考えられます。
同年、摂津酒造は「宝酒造」に吸収合併され、酒造技術や工場などが引き継がれました。
摂津酒造時代には本格的なウイスキー作りは実現しなかったものの、宝酒造ではウイスキーも主力商品となりました。
そして、摂津酒造の灘工場だった跡地(現在:白壁蔵)は、現在もスパークリング日本酒「澪」の製造場所として活用され続けています。
その後、阿部家がどうなったのかは不明ですが、現・宝ホールディングスの中に御親戚などがいらっしゃるかもしれません。
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