やなせたかしは弟と小倉で再会!佐世保から出発前の最後の会話やその後の史実とは?【柳瀬千尋】

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やなせたか氏の弟
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やなせたかし夫婦をモデルにした朝ドラ「あんぱん」。

あんぱん第11週「軍隊は大きらい、だけど」では、嵩の弟・千尋との久しぶりの再会シーンが描かれます。

千尋は「5日後に佐世保から駆逐艦に乗るがや」と話し、2人は別れを惜しみました。

実は、これはやなせたかしさんと弟・柳瀬千尋さんの史実に基づいたエピソードです。

そこで今回は、

  • やなせたかしさんと弟が小倉で再会した史実・会話の内容は?
  • やなせたかしさんの弟のその後はどうなった?

について詳しくご紹介していきます。

この記事では、朝ドラ「あんぱん」の今後の展開を含む可能性がありますのでご注意ください。

目次

やなせたかしと弟の柳瀬千尋が小倉で再会した史実とは?

やなせたかしと弟

やなせたかしさんが小倉の部隊にいた頃、海軍になった千尋さんが一度だけ会いに来たのは実話に基づいたエピソードです。

柳瀬千尋さんが大学を卒業し、海軍の任務に就くまでの時系列がこちらです。

時期出来事
1943年9月京都帝国大学法学部卒業(半年繰り上げ)
1943年10月横須賀第二海兵団に入団
1944年2月対潜学校(術科学校)で訓練
1944年5月海軍少尉に任官
駆逐艦「呉竹(くれたけ)」に配属
1944年8月佐世保滞在中に小倉で兄と再会

詳しく見ていきましょう。

卒業後に横須賀へ

やなせたかしさんの弟・柳瀬千尋さんは秀才で、京都帝国大学法学部に進学

しかし、学生を戦力として動員する時代となったことで、3年→2年半へと修業が短縮されることになります。

大学を卒業後、1943年(昭和18年)10月に、千尋さんは横須賀の海兵団に入団

当時、学歴のある人にとっては陸軍よりも海軍が人気で、千尋さんも海軍予備生に志願したのでした。

そして、翌年には「対潜(たいせん)学校」へ進み、さらに専門的な訓練を受けることに。

対潜(たいせん)学校とは?

アメリカの潜水艦との戦いにおける指揮官を養成する学校。
横須賀の久里浜にあり、敵の潜水艦が発する音を聞き分けるための専門的な訓練が行われていました。
千尋さんが担当した音を聞き分けるという役目は、艦の運命を左右する極めて重要な任務で、艦底に近い「水測室」で行われます。
非常に危険な部署であり、攻撃を受ければ「まず助かることはない(脱出できない)」という命懸けの任務でした。

手紙のやりとり

やなせたかしさんの弟・柳瀬千尋さんが横須賀にいたころ、小倉連隊にいたやなせたかしさんに葉書が届きます。

その葉書は現在も保管されており、消印は「昭和18年12月29日」でした。

この頃、千尋さんは海軍に入隊して2ヶ月ほど。

葉書には、「甘えられる人がいないのは辛い」という千尋さんの本音が語られていました。

俺は兄貴の外に親身になって慰めてくれる人がいない。
それだけに、ちょっとした慰めの言葉でおふくろたちがどんなに嬉しがるかがわかる様な気がする。

「やなせたかしの生涯」より

皆一人ぼっちで淋しい人達ばかりだから、手紙や一緒にいる時だけでも、俺だけはしっかりした世話役が出来る様な格好をしていなけりゃならない。
その実、俺もやはり子供の様に抱いてあやして寝かしつけてくれる人が欲しいのだが。
一人前の男になった以上、これも仕方がない。
兄貴は誰にも遠慮せずに甘えられるから羨ましいと思うのはひがみかな。

「やなせたかしの生涯」より

ここでいう「お袋たち」とは、育ての親である伯母さん、そして実母のことを指していると思われます。

千尋さんは母たちに甘えることはできず、「一人前の男としてしっかりしなければいけない」という責任感を強く持っていたのです。

しかし、実際には、寂しさや心細さ、葛藤を抱えていたことが伺えます。

「子供のように抱いてあやしてほしい」という弱音を吐けるのは、きっと実の兄であるやなせたかしさんだけだったのでしょう。

故郷に挨拶まわり

やなせたかしさんの弟・柳瀬千尋さんが対潜学校を卒業したのは、昭和19年(1944年)5月末。

「海軍少尉」となった千尋さんは、数日間の休息を与えられ、高知へ帰郷したという記録が残っています。

それは「家族やゆかりの者へ最後の挨拶に行け」という意味での休暇でした。

ここで、柳瀬千尋さんは、育ての親の伯母さんや親友の実家などを訪ねたようです。

小倉で兄と再会

昭和19年(1944年)7月28日に、千尋さんは「駆逐艦・呉竹(くれたけ)」の配属が決まります。

そして、兄・やなせたかしさんと小倉で再会を果たしました。

再会時期についての具体的な情報はありませんが、昭和19年(1944年)8月11日〜24日に「駆逐艦・呉竹」が佐世保に入港していた記録が残っています。

そのため、やなせたかしさんと柳瀬千尋さんが再会したのは、その間の出来事だと考えられます。

やなせたかしと弟・柳瀬千尋の最後の会話の内容とは?

やなせたかしと弟

やなせたかしさんの弟・千尋さんは「僕はもうすぐ死んでしまうが、兄貴は絵を描き続けてくれ」と言葉を遺したそうです。

「任務の内容は言えない」

1944年(昭和19年)の夏、北九州市の小倉で久しぶりに再会した兄弟。

千尋さんは「海軍少尉」、そしてやなせたかしさんは「陸軍伍長」となっていました。

小倉での再会時、千尋さんははっきりと「最後の挨拶に来た」とやなせたかしさんに告げたそうです。

兄への再会は、最後の挨拶回りの一貫だったのです。

しかし、例え肉親であろうとも、軍人同士でも、千尋さんは、自分の任務の内容をやなせたかしさんに伝えることはできませんでした。

「生きては戻れない」と千尋さんがハッキリ覚悟していたことや「極めて特殊な任務である=命懸けである」ことは、会話の内容から読み取れたようです。

「自ら志願した」

その様な危険な任務につくことに対して、やなせさんは「おまえ、なんでそんなのに志願するんだ、やめたほうがいい」と止めたそうです。

しかし、千尋さんは「自分から志願したのだ」と語ります。

「志願するものは一歩前へ」そう言われて、自分が一歩前に出たのだと・・・。

「全員出るのに自分だけでない訳にはいかない」という当時の雰囲気が、若者を危険な任務へと突き進ませていたのでした。

「こんなものは猿芝居だ」

再開時に、「海軍少尉」の立派な制服を着た柳瀬千尋さん。

7つボタンでキリッとした短剣姿だったそうです。

当時の日本海軍の少尉を含む士官は、「短剣」を携行していました。
これは海軍の正装や礼装の一部として、階級を示す象徴的な装備でした。

やなせたかしさんは「おお、かっこいいじゃないか」と千尋さんに言うと、「いや、こんなものは猿芝居だ」と返してきたそうです。

「短剣を吊った猿芝居だよ」と皮肉まじりに話す千尋さん。

通常は「4年」かけて訓練して海軍士官になるべきものを、当時は「4ヶ月」で叩き込まれていました。

少し前まで学生生活を送っていた身とすれば、「見た目だけ」だと感じるのは無理もないでしょう。

「兄貴は絵を描いてくれ」

そして、千尋さんは「ぼくはもうすぐ死んでしまうが、兄貴は生きて絵を描いてくれ」と言い残して、去っていったのだそう。

そこまで言われてしまったやなせたかしさんは、嫌な予感のようなものを感じずにはいられませんでした。

兄弟が再会した直後、やなせたかしさんも日本を出ていよいよ戦地に向かうことに。

上陸した中国では、何度も夢に千尋さんが出てきて、その度にスーッと消えていったそうです。

佐世保から出港した柳瀬千尋さんのその後とは?

やなせたか氏の弟

やなせたかしさんの予感は的中し、1944年12月、千尋さんが乗った駆逐艦「呉竹」はバシー海峡で沈没する運命を辿ります。

詳しい時系列は以下の通りです。

時期呉竹の出来事
1944年8月24日佐世保(長崎)を出港し、三池港(福岡)へ
1944年8月27日三池港(福岡)を出港し、フィリピン・マニラ方面へ
1944年9月30日「ミ18船団」を護衛
1944年10月19日「春風船団」を護衛
1944年10月31日台湾・高雄に入港
1944年11月1日「モマ06船団」を護衛
「マタ32船団」を護衛
フィリピン・ルソン島への物資を運ぶ輸送船団の護衛で高雄とマニラを往復
1944年12月30日バシー海峡で米潜水艦からの攻撃を受けて沈没

柳瀬千尋さんが佐世保から「呉竹」に乗り込んで、約3ヶ月半後。

台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡でアメリカの攻撃を受け、柳瀬千尋さんがいた水側室あたりは跡形もなくなっていたと当時の生存者は語っています。

バシー海峡は当時「魔の海峡」や「輸送船の墓場」と呼ばれ、10万人以上が亡くなったという悲しい歴史がある海域でもありました。

バシー海峡(台湾とルソン島の間)

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