やなせたかしと母は再会!東京での再婚や晩年の史実とは?【柳瀬登喜子】

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アンパンマンの生みの親「やなせたかし」さんの母は、柳瀬登喜子(やなせときこ)さんです。

早くに夫を病気で亡くした柳瀬登喜子は、小学生だったやなせたかしさんを伯父の家に預けて再婚してしまいます。

朝ドラ「あんぱん」では、数年後に嵩に会いに来たものの、また一人で町を出て行ってしまう様子が描かれました。

史実では、やなせたかしさんと母親のその後はどうなったのでしょうか?

そこで今回は、

  • やなせたかしと母はその後再会したのか?
  • やなせたかしの母の最後や晩年はどうなったのか?

について詳しくご紹介していきます。

目次

やなせたかしと母は再会した?その後の史実とは

史実では、やなせたかしさんは、母・柳瀬登喜子さんと何度か再会しています。

小学2年生の時に母親と離れ離れになったやなせたかしさん。

しかし、関連図書などによれば、その後何度か再会を果たしていることがわかっています。

詳しく見ていきましょう!

①小学5年生の時に母親に再会

「やなせたかし はじまりの物語」(高知新聞社)という本では、やなせたかしさんと母親のツーショット写真が掲載されています。

この写真には「小学5年生」と記されており、この時に母親と再会していたことが伺えます。

まだ小学生の時代ですので、母親が後免町に会いにきたのではないかと推測できます。

この時の登喜子さんは、髪の毛を大きく結い上げ、素敵な着物をお召になっています。

朝ドラ「あんぱん」の登美子(松嶋菜々子)と重なる雰囲気がありました。

②中学生の時に母親と再会

また、「やなせたかしの生涯」という関連書には、「中学生の時に一人で母親に会いに行っていた」というエピソードがあります。

嵩はときどきひとりで母親に会いに行っていた。千尋はそのことを知っていたようで、あるとき嵩にこう言った。
「兄ちゃんはいいよ。でもぼくは行けない。ここのお父さんとお母さんに申し訳ないし、ぼくは柳瀬家の後継だから」
悩みなどないように見えた弟も、人に言えない苦しさをかかえていた。

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

母の登喜子さんの所在がどこかまでは書かれていませんが、やなせさん達が住む南国市から一人で行ける距離に母親が住んでいたことが推測できます。

朝ドラ「あんぱん」では、母の登美子は高知市内で再婚生活を送っていたので、似たような境遇だったのかもしれません。

やなせたかし父とは二回目の結婚

やなせたかしさんの母・登喜子さんは、1894年(明治27年)生まれ。
高知の女学校在学中に一度結婚した経歴があり、相手は同じ出身地の豪商でした。しかし、結婚生活は長く続かず、すぐに離縁。その後、1918年(大正7年)に24歳で柳瀬清さんと再婚し、1919年にはやなせたかしさんが誕生しました。
やなせたかしさんを伯父の家に預けて再婚したのは、3回目の結婚ということになります。

やなせたかしさんは、自分を置いて言った母親と会うのは辛くはなかったのでしょうか?

当時の気持ちについて、やなせたかしさんは、「どうしても登喜子さんのことを恨む気持ちにはなれなかった」と語っています。

御免町で暮らすようになってからも母の悪口が耳に入ってきて、嵩はそれを聞くのが何よりも嫌だった。自分を置いて再婚したことを知ったあとも、母をうらむ気持にはどうしてもなれなかった。

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

「一人で会いに行っていた」という文言からも、中学時代の再会は一度だけではなさそうです。

朝ドラ「あんぱん」では、会いに来た嵩に対して「ここへ来てはいけないの」と突き放す姿も見られましたが、実話では、やなせたかしさんを追い返したりはしていなかったということですね。

③学生時代は母親が営む下宿から通う

18歳になり、やなせたかしさんは東京高等工芸学校(現在の千葉大学)に進学します。

その時の下宿先が、なんと東京で母親が営む下宿だったという情報があります。

母は再婚した夫と死別後、東京で下宿屋を営み、やなせさんは母の元から大学に通ったという。

「やなせたかし はじまりの物語」(高知新聞社)

ここにあるように、母・登喜子さんは、4回目の再婚をしていたことが判明しています。

門田隆将『慟哭の海峡』という本の中では、

  • 東京の官僚(子持ち)と再婚
  • 夫に先立たれて世田谷の一軒家に住んでいた

という情報があります。

また、やなせたかしさんの関連本においても、「亡き夫が残した東京の家に住んでいた」という言葉が記されています。

登喜子も再婚相手の男性に先立たれ、亡夫が残した東京の家に住んでいた

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

高知新聞社の取材では、再婚相手は「内務省勤務」の役人だったという情報もあることから、再婚を機に、高知→東京へ出てきていたことが分かります。

その後、4番目の夫に先立たれた母・登喜子さん。

なんと、東京で「下宿屋を営む」という個人事業主になっていたのです。

もしかしたら、夫の遺産や持ち家などを元手にして商売を始めていたのかもしれません。

母が4回目の再婚していた事実は複雑だったでしょうが、やなせたかしさんは、学生時代は毎日のように母親と会っていたことになります。

④戦後に母親と再会

やなせたかしさんは、1941年、22歳で入隊します。

その後、九州小倉の部隊を経て、中国本土へわたっています。

戦いが終わり、1946年1月に日本へ帰還すると、故郷の高知県に戻りました。

そして、母・登喜子さんと再会し、「何十年ぶりかに母のひざまくらで眠った」というエピソードが残されています。

嵩はせんそうから帰ってきたとき、何十年ぶりかで母のひざまくらで眠った。(中略)顔に熱いものが落ちてきて目を覚ますと、それは母の涙だった。母は横を向いたまま、小さな声で、「許してね」と言った。

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

息子が無事に帰ってきたことを喜びつつも、小さい頃に十分甘えさせてあげられなかったことや置いていったことを悔やむ様子が伝わってきます。

この時のやなせたかしさんの年齢は27歳前後で、母・登喜子さんは52歳前後と思われます。

高知新聞社の取材によれば、この頃、母・登喜子さんは戦火を逃れるために東京から高知へ疎開してきていました。

だから高知で再会することができたのですね。

【弟の千尋】大学時代に母親と再会

やなせたかしさんの関連本には、弟の千尋さんと母・登喜子さんが二人で写っている写真が掲載されています。

これは、弟の千尋さんが京都帝大時代に写真館で撮られたもので、やなせたかしさんの写真アルバムに残されていました。

その写真には、やなせたかしさんの文章が添えられています。

(中略)
帝大生というものはあまりお洒落ではありません
母ちゃんと一緒に京都で撮った写真です
母ちゃん旅でやつれています

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

弟の千尋さんが京都帝大に在学していたのは、1941年(昭和16年)4月〜1943年(昭和18年)9月です。

在学中は、京都に住んでいた千尋さん。

母の登喜子さんが疎開で高知に戻ってきていたとすれば、わざわざ京都まで会いに行った(旅行)ということになります。

中学生の頃は伯父さんたちに遠慮して、「ぼくは会いに行けない…」と言っていた千尋さんでしたが、実母との交流が残っており、しっかり再会していたことが伺えます。

情勢が悪化していた時代性もあり、「会っておきたい」という母心があったのと同時に、エリートコースに進んだ千尋さんのことが誇らしい気持ちあったのではないでしょうか。

しっかりと写真館で写真を撮っているくらいですから、養子に出した千尋さんのことも大切に想っていたのでしょう。

やなせたかしの母・柳瀬登喜子の最後や晩年は?

やなせたかしさんの母は4回の結婚を経て、晩年は高知県で一人暮らしをしていたようです。

先ほどご紹介したように、母・登喜子さんは、戦時中に東京から高知へと戻ってきていました。

高知新聞社の取材によれば、母・登喜子さんは、実家から少し離れた小さな家に一人で暮らし、地元の女性たちに「生花」や「茶道」を教えて生計を立てていたことが分かっています。

この頃はもう50代ですから、流石に5回目の結婚とはいかず、自活の道を進んでいたようです。

家の周りが農家だらけだったこともあり、農作業で忙しい家の子供達の面倒を引き受けていたという登喜子さん。

当時を知る人によれば、登喜子さんの家は「学童保育代わり」のようになっており、多くの子どもが出入りしていたんだとか。

家を訪ねると茶菓子が用意されており、地元では「お茶のおばちゃん」と子供達に慕われていたようです。

このように、登喜子さんは戦後も高知県に住み続け、多くの子供達に囲まれながら、賑やかに晩年を迎えたことが予想できます。

高知新聞社の取材では、登喜子さんは1967年に73歳で亡くなられているようです。

朝ドラ「あんぱん」では、松嶋菜々子さん演じる母・登美子は、自分勝手で怖いイメージがありました。

しかし、当時は「女性が子供を育てて生きていく」というのは想像以上に大変な時代だったこともあり、彼女のような生き方を責めることはできないのかもしれません。

まとめ

今回は、やなせたかしさんの母・登喜子さんとの再会やその後について詳しくご紹介しました。

やなせたかしさんは、学生時代や戦後に母の登喜子さんと何度か再会を果たしています。

また、弟の千尋さんも大学時代に母と再会して、記念写真を残していました。

朝ドラ「あんぱん」では、どうしようもない母親として描かれていますが、実際には、母心と自由さの中で葛藤しながらも、息子たちを愛した母親像が伝わってきます。

参考にした本はこちらです。


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