やなせたかし夫婦をモデルにした朝ドラ「あんぱん」。
東京の芸術学校を卒業した柳井嵩(北村匠海)は、東京の製薬会社に就職が決まりました。
デザイナーの勉強をしていた嵩ですが、一体なぜ”製薬会社”を選んだのでしょうか?
また、この製薬会社のモデルがどこなのか気になりますよね。
そこで今回は、
- あんぱん嵩の就職先の製薬会社のモデルはどこ?
- やなせたかしはなぜ製薬会社を選んだ?
- 製薬会社の宣伝部の仕事とは?
について史実を元に詳しくご紹介していきます!
【あんぱん】嵩の就職先「製薬会社」のモデルはどこ?
史実では、やなせたかしさんは1940年(昭和15年)3月に東京高等工芸学校を卒業し、製薬会社の就職しています。
その就職先とは、
田邉元三郎商店・宣伝部
です。
田邉元三郎商店とは
「田邉元三郎商店」とは、現在の「田辺三菱製薬」の源流となった製薬会社の1つです。
1901年に創業後、以下のように合併などを繰り返し、社名が変更されていきました。
年代 | 社名 |
---|---|
1901年 | 田邉元三郎商店 |
1943年 | 東京田辺製薬株式会社 |
1999年 | 三菱東京製薬 |
2001年 | 三菱ウェルファーマ |
2007年 | 田辺三菱製薬 |
もともと「田邉元三郎商店」は、「田辺製薬(元・たなべや薬)」創業者の次男が始めた会社でした。
当初は「田辺製薬」と「東京田辺製薬」でエリアの棲み分けをしていましたが、1970年頃に親会社「田辺製薬」から独立。
その後、三菱系との何度かの合併を経て、2007年には「田辺製薬」とも再度合併。
現在の「田辺三菱製薬株式会社」となっています。
栄養剤やビタミン剤の開発
やなせたかしさんが入社した頃、「田邉元三郎商店」は、スポーツ薬の「サロメチール」をはじめとする栄養剤やビタミン剤の開発で有名な会社でした。
1936年(昭和11年)に日本で初めてビタミンCを合成生産し、「アスコルチン」という商品名で発売しました。
主力商品は「エビオス(ビール酵母剤)」、「ハリバ(肝油製剤)」など。
当時の社屋は日本橋にあり、3階建ての小さな会社でしたが、新薬や新製品を次々と発表して活気に溢れていたそうです。
やなせたかしが製薬会社を選んだ理由はなぜ?
やなせたかしさんが製薬会社に就職を決めた理由について、著書でこのように語っています。
その時、ぼくは既に東京田辺製薬の宣伝部に就職が決まっていた。
やなせたかし「アンパンマンの遺書」より
愚かなことに、製薬会社に勤めれば薬を安く父にまわせるかもしれない、少しは役に立つだろう、と考えたのである。
ここで語っている「父」とは、育ての親である伯父・柳瀬寛さんです。
柳瀬寛さんは、高知県南国市にある「柳瀬医院」の町医者でした。
小学2年生から伯父夫婦にお世話になっていたやなせたかしさんは、「少しでも恩返しがしたい」という気持ちで製薬会社を選んだのでした。
朝ドラ「あんぱん」でも、寛の妻・千代子さんからこのようなセリフがありました。

少しでもあなたのお仕事の役に立ちたいと思うたがかもしれませんね。



・・・わしはそれより、嵩の卒業制作が楽しみや。
史実では、伯父の柳瀬寛さんに就職先を伝えると、「しょうもない会社に入ったな」と意外な反応が返ってきたそうです。
「田辺製薬か、しようもない会社に入ったな」と父は(あえて父と呼ぶ)言った。
やなせたかし「アンパンマンの遺書」より
やなせたかしさんの想いに気づきながら、あえてそのような返事をしたのかもしれません。
一方、伯父の寛さんには、「今後を見据える目」があった可能性もあります。
実際、やなせたかしさんが就職した1940年以降は、物資不足などの影響を受けて生産能力が低下して、工場の閉鎖などがありました。
兵役の関係で、やなせたかしさんが会社に在籍したのは1年ほどでしたが、戦後は三菱グループとの提携を通じて、業績の回復を図っていったのです。
製薬会社の宣伝部の仕事とは?デザイナーとして活躍
当時の東京田辺製薬は、「宣伝」にかなり力を入れていたそうです。
そんな宣伝部に配属されたやなせたかしさんの仕事は、新聞や雑誌に載せる広告やポスターなどの平面の印刷物をデザインすること(グラフィックデザイナー)でした。
東京田辺製薬は生理用品(タンポン)も扱っていたので、婦人向けの広告漫画も担当したんだとか。
このように、新人のやなせたかしさんにもどんどん仕事が回ってきて、忙しいけれど充実した毎日を送っていたと著書で語っています。
当時の広告には漫画が使われることも多く、宣伝部には、
- イラストレーター
- 写真家
- 漫画家
などが出入りしており、やなせたかしさんは大いに刺激を受けたそうです。
また、宣伝部を指揮していた会社のトップ「内藤豊次」さんは、のちに製薬会社エーザイの創業者となっていきます。
↓田邉元三郎商店の広告
「高血圧」という言葉は、1924年に日本で初めての血圧降下剤『アニマザ』を売り出す際に作られたものでした。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) January 22, 2021
この言葉を創製した内藤豊次は、「元気出していきましょう」でお馴染みのエーザイ株式会社の創始者です。 pic.twitter.com/4FZdwrIb6b
内藤さんは「仕事の鬼」と言われるほど厳しい人で、耐えきれずに辞める人も少なからずいたそうです。
しかし、やなせさん達デザイナーには口を出さずにいてくれたため、のびのびと仕事ができたんだとか。
そのおかげもあってか、東京田辺製薬は、次の年も東京高等工芸学校に就職を依頼。
「君たちは評判がいいらしいね」とやなせさんの恩師の杉山先生に言われたそうです。


他にも、東京田辺製薬の宣伝部は、様々な人生が集まっており、漫画家や放送人などを輩出して行きました。
もちろん、やなせたかしさんもその一人となっていったのでした。
嵩の就職後が描かれるあんぱん第10週「生きろ」のあらすじはこちらです。


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