やなせたかし夫婦をモデルにした朝ドラ「あんぱん」では、嵩がのぶを追って上京。
母・登美子に勧められて「三星百貨店(みつほしひゃっかてん)」というデパートに就職する展開となります。
この「三星百貨店」の実在モデルは、一体どこなのでしょうか?
今回は、あんぱんに登場する百貨店について、やなせたかし先生の史実をもとに詳しくご紹介していきます!
※この記事には朝ドラ「あんぱん」の今後の展開を含む可能性がありますのでご注意ください。
【あんぱん】三星百貨店の実在モデルはどこのデパート?

三星百貨店の実在モデルは「三越百貨店(みつこしひゃっかてん)」の可能性が高いです。
「あんぱん」の嵩のモデル・やなせたかし先生は、嵩と同じく漫画家を夢見て上京した過去があります。
東京では、2つの会社に勤めた後に漫画家として独立をしています。
詳しい時系列は以下の通りです。
年代 | やなせたかしの年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1947年6月 | 28歳 | 上京して友人のデザイン会社に就職 |
1947年10月 | 28歳 | 三越百貨店(日本橋三越本店)に就職 |
1949年 | 30歳 | 小松暢さんと結婚 |
1953年 | 34歳 | 三越百貨店を退職・独立 |
詳しく見ていきましょう。
①友人のデザイン会社に就職
1947年6月に高知新聞社を退職して上京したやなせたかしさん。
最初の働き口は、製薬会社時代の仲間が新橋で始めたデザイン会社でした。
製薬会社時代とは、やなせたかしさんの新卒で就職した会社(東京田邉製薬)です。

このデザイン会社にて、やなせたかしさんはグラフィックデザイナーとしてのキャリアを再開。
「日本広告展」に作品を応募してみたところ、なんと3点が入選することになります。
そのうちの1点が「デパートの部」の部会賞を受賞したことで、百貨店での仕事にも興味を持つように。
ちなみに、このデザイン会社では、東京高等工芸学校の同級生である神保勝清さんも働いていたそうです。
この記事を書いている時点で、嵩の同級生・辛島健太郎(高橋史哉)の行方は不明ですが、東京で再会する可能性もありそうですね!
②三越百貨店に就職
やなせたかしさんが入選した広告展が開催されていたのは「日本橋三越本店」でした。
その時にタイミングよく三越百貨店が宣伝部員を募集していたため、やなせたかしさんは試験を受けてみることにします。
そして見事採用され、1947年10月から「日本橋三越本店」の宣伝部で働くことに。
やなせたかしさんは、史実ではこのようなステップを踏んで、百貨店勤務となります。
一方、「あんぱん」では、母・登美子の勧めで「三星百貨店」に就職することになるようです。
史実とドラマでは多少異なりますが、後にも先にも、やなせたかしさんが百貨店で勤務したのは「三越」のみです。
そのため、
三星百貨店のモデル=三越百貨店
である可能性が極めて高いです。
「ミツホシ」と「ミツコシ」で名前もそっくりですしね!
三星百貨店のモデル三越時代のやなせたかしさんのエピソードとは?

あんぱんの嵩のモデル・やなせたかしさんが三越百貨店で勤務していたのは、28歳〜34歳の約6年間です。
その間には、以下のような印象的なエピソードが自伝にて語られています。
- 採用試験は重役の一言で合格
- 包装紙デザインに携わる
- 副業の漫画収入が給料の3倍に
詳しくみていきましょう。
落ちかけていた採用試験
やなせたかしさんが三越百貨店に入社してから聞いた話では、「採用試験で一度は落とされていた」という事実があったようです。
その理由は、面接での態度が生意気で、面接官の反感を買ってしまったからだそうです。
その反応が一点、合格に転じたのは、重役の井上慶吉さんという方の「あいつは見どころがあるから合格にしてくれ」という一声でした。
実は、この重役、やなせたかしさんと同じ高知県出身でした。
入社してすぐに重役室に呼ばれたやなせたかしさん。
井上さんから「同郷だからきみを採用したわけではない。しっかり仕事をしてくれよ。」と念を押されたんだとか。
井上さんも元々文学青年だったこともあり、あんぱんの八木のように、やなせたかしさんに「同じ匂い」を感じたのかもしれませんね。
その後、井上さんがポケットマネーで作っている同人誌にも参加し、やなせたかしさんは挿絵を書いたり、エッセイを寄稿するなどの交流もあったようです。
ネット上では、この人物が八木信之介(妻夫木聡)のモデルなのでは?という推測も生まれていました。

包装紙のデザインに携わる
やなせたかしさんが配属された三越宣伝部では、
- ショーウィンドウの装飾
- 売り場の看板のデザイン
- パネルやポスター制作
などを行っていました。
やなせたかしさんが三越百貨店で手がけた仕事のうち、現在も使われているのが、白地に赤の石のような抽象形が散らされたこの包装紙です。
三越の包装紙 「華ひらく」
— 三越伊勢丹ギフト (@mitsukoshigift) July 13, 2025
華ひらくの原画は平面だが、物を包んで立体になったときの表情の変化も魅力のひとつ。
「どのような大きさでも、どの角度から見ても、図案の美しさが変わらない」というデザインは、百貨店の包装紙を一変させました
華ひらくの贈り物https://t.co/PBPQLShBRc pic.twitter.com/Gr1Z4iycpX
このデザインを描いたのは、洋画家の猪熊弦一郎(いのくまげんいちろう)さん。
やなせたかしさんは、猪熊さんに「MITSUKOSHIの文字はそっちで書いてね」と言われ、文字(英語の筆記体)の部分を担当することとなりました。
二人の合作で「華ひらく」と名付けられたこの包装紙は、現在も使用されています。
デパートの三越の包装紙のデザインには
— とーちゃん(さん付け不要) (@knightma310) June 15, 2025
「華ひらく」という名前がある。
ちなみに元デザインにMitsukoshi と筆記体で書き入れたのは
当時同社でグラフィックデザイナーとして働き
のちに「アンパンマン」で有名になる、やなせたかしさん。 pic.twitter.com/v3e36MWuyE
当時は、包装紙といえば茶紙が一般的でした。
裏話によれば、重役会議では「デザインが大胆すぎる」という意見もあったようですが、「いいじゃないですか、決めましょう」という社長の一声で採用となります。
1950年に「クリスマス用」として誕生したこの包装紙。
好評により翌年(1951年7月)のお中元から全店舗にて常時使用することになったんだとか。
そして、他の百貨店も相次いで包装紙を白地にリニューアルするきっかけにもなったようです。
見覚えのあるあの包装紙に、アンパンマンの作者であるやなせたかし先生も携わってきたとは驚きですよね。
この包装紙については、三越のホームページでも詳しく紹介されています。
漫画の副業から独立へ
やなせたかし先生は、三越に勤めつつ、新聞や雑誌に漫画の投稿もしていました。
ちょうど漫画ブームが到来していたこともあり、若手の漫画家たちと「独立漫画派」というグループを結成します。
メンバーは、
- 小島功さん
- 関根義一さん
- 金子泰三さん
などの若手が中心。
グループで様々な雑誌からの注文を分担し、原稿料を配分するという流れでした。
そんな「独立漫画派」は銀座の雑居ビルに小さな事務所を構えます。
やなせたかし先生は三越での仕事を終えると、事務所に寄る日々を送ったそうです。
すると、やなせたかし先生の漫画の仕事はどんどん増え・・・
やがて三越の給料の三倍も超えていきました。
34歳になっていたやなせたかしさんは、妻・暢さんの「いざとなったら私が稼ぐから!」という後押しもあって独立を決意。
1953年(昭和28年)に、約6年間勤めた三越百貨店を退職することになります。
このように、やなせたかし先生は、三越での仕事も功績も残しつつ、「好きなこと」を突き詰め、独立を果たすことができたのでした。
そのため、日本橋三越のシンボル・ライオン像は、やなせたかしさんは「人生に影響を与えたライオンの1つ」だと後に語っています。
戦後、ひとりぼっちになったやなせたかしさん…ライオンの石像、三越ライオン像、『やさしいライオン』の3頭が運命の歯車を動かし始めた – 文春オンラインhttps://t.co/rJVdJ0JqG3
— CREA (@crea_web) July 15, 2025
まとめ
今回は、あんぱん第18週から登場する嵩の職場「三星(みつほし)百貨店」について取り上げました。
三星百貨店は、やなせたかしさんが勤務していた三越(みつこし)百貨店(日本橋三越本店)をモデルにしている可能性が極めて高いです。
三越時代の数々のエピソードが、朝ドラでどのように描かれていくのか楽しみですね!
あの包装紙も登場するのでしょうか?
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