今田美桜さん主演の朝ドラ「あんぱん」。
あんぱん第12週「逆転しない正義」では、のぶの夫・若松次郎が広島県呉市の「海軍病院」に入院することになります。
この次郎の入院先のモデルはどこなのでしょうか?
そこで今回は、
- あんぱんの海軍病院のモデルはどこ?
- あんぱんの海軍病院の現在の病院名は?
- 高知から呉までの移動時間はどのくらいだった?
について史実を交えながらご紹介していきます!
この記事は、朝ドラ「あんぱん」の今後の展開を含む可能性がありますのでご注意ください。
【あんぱん】次郎の入院先・海軍病院モデルはどこ?

「あんぱん」で次郎が入院している海軍病院のモデルは「呉海軍病院」である可能性が高いです。
詳しく見ていきましょう。
海軍病院とは
そもそも「海軍病院(かいぐんびょういん)」とは、一体どんなものなのでしょうか?
日本海軍の軍人や関係者の健康を守り、傷病者の治療・療養を行うための医療施設です。
海軍病院は、「陸上」と「海上(病院船)」の二種類ありました。
陸上の海軍病院は、日本海軍の鎮守府(ちんじゅふ)があった以下の4箇所が有名です。
- 横須賀(神奈川県横須賀市)
- 呉(広島県呉市)
- 佐世保(長崎県佐世保市)
- 舞鶴(京都府舞鶴市)
その中でも「呉鎮守府」は「くれちん」という通称で呼ばれ、重要な拠点となっていました。
呉海軍病院の歴史
「呉海軍病院」の歴史は古く、明治22年(1889年)に「呉鎮守府附属呉海軍病院」という名前で開院しています。
その後、昭和20年(1945年)まで約55年以上も存続していました。
終戦後、呉海軍病院は、進駐してきたイギリス・オーストラリア軍に接収(強制的に取り上げて管理下に置くこと)されてしまいます。
昭和31年(1956年)に接収が解除され、日本に返還されています。
1945年は救護の拠点に
広島といえば、1945年8月6日に大惨事を受けた場所。
呉海軍病院は無事だったのでしょうか?
実は、呉市はその前月に複数回にわたり空襲を受けており、病院も全焼は免れたものの被害を受けていました。
79年前の今日。1945年7月28日,呉軍港空襲。24日からの一連の空襲によってほとんどの艦が着底し,120名以上の一般市民が犠牲となった。写真は攻撃を受ける戦艦「榛名」。ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正。 pic.twitter.com/KfADf5IPJT
— 渡邉英徳 wtnv (@hwtnv) July 27, 2024
8月6日については爆心地から距離があったことから、病院としての機能は残っていたようです。
当時、呉海軍病院は、すぐに救護トラックを広島駅に派遣。
医薬品とともに多くの看護婦や医師が広島市に派遣され、被害者の手当に当たったそうです。
一方、海軍病院のトラックで運ばれた患者たちは病院に入り切らず、裏山をくり抜いた「地下壕」へと収容されたという記録が残っています。
このような悲惨な状況の中で、手が回らず、亡くなった人も多かったようです。
【あんぱん】次郎のモデル・史実では高知で療養?

そのような史実を知ると、「次郎さんは呉にいて大丈夫?」と気になる人も多いでしょう。
先にネタバレしてしまうと、次郎さんは無事ですが、病気(肺結核)によって帰らぬ人となってしまいます。
実は、史実では「のぶの夫が海軍病院に入院していた」という情報はそもそも確認できていません。
「あんぱん」の若松次郎は、小松暢さんの最初の夫・小松総一郎さんがモデルとされています。
小松総一郎さんは、次郎と同じく病気(結核)で下船し、療養生活を送ったという史実あります。
一方、下船したタイミングは1943年10月(ドラマでは1945年春)で、その後の約3年間、高知市内で療養をしていたことが高知新聞の取材で判明しています。
だが結核を患い、同年10月末に船を下りた。
【あんぱん〝のぶと結婚の若松次郎〟】暢さんの最初の夫はどんな人? エリート機関士・小松総一郎さん
古里に戻り3年療養した末、終戦後の46年1月19日に亡くなった。享年33。
モデルの小松総一郎さんも、下船直後は、次郎と同じく呉の海軍病院に入院していたかもしれません。
しかし、呉市は鎮守府であり、敵の攻撃を受けやすいという安全面を考慮して高知に戻っていた可能性もあります。
また、当時の結核治療は、経済的理由や施設の不足などにより、自宅療養が一般的でした。
そのため、小松総一郎さんも高知市内の自宅か、もしくは高知市内の医療施設で療養していた可能性が考えられます。
【あんぱん】呉海軍病院の現在!病院名はどこ?
呉海軍病院は、現在は「呉医療センター」という名前の病院となっています。
- 住所:広島県呉市青山町3番1号
- 病院名:独立行政法人国立病院機構・呉医療センター
「呉海軍病院」は接収が解除された後、1956年に「国立呉病院」として再開。
1965年には「中国がんセンター」を併設し、2004年には現在の「独立行政法人国立病院機構・呉医療センター」という名前になりました。
年間の入院患者総数は1万人以上、ベッド数は700床もあり、呉市や周辺の地域医療を支え続けています。
広島県内では、広島市民病院、広島大学病院、県立広島病院に次ぐ4番目の大規模な病院です。
なお、現在も「海軍病院」であった名残(階段や石碑など)が周辺には残されています。
呉に残る「海軍」の痕跡⚓🌸
— 詞-Nori-No!DM (@Nori86651955) April 4, 2024
①②旧海軍病院階段
建物は解体され、
今は階段を残すのみ。
跡地は「国立病院機構呉医療センター」と
なっています
③④串山公園に残る
「港湾監視所」跡。
今は鬱蒼とした木立に
囲まれていますが、
当時はその役目通り軍港の様子が
手に取る様に見えたことでしょう。 pic.twitter.com/KKXv61pXu4
【あんぱん】高知から呉までの移動時間はどのくらい?

当時の交通事情を考えると、鉄道と船の移動で、半日以上(9〜12時間以上)かかっていたと考えられます。
あんぱん第12週では、次郎から葉書をもらったのぶが急いで呉の海軍病院に駆けつけるシーンが描かれます。
のぶの移動ルート(1940年代)を予測すると、
高知市から国鉄土讃線で多度津(香川)へ、宇高連絡船で宇野(岡山)へ、山陽本線で広島へ、呉線で呉へ
という方法が考えられます。(総距離:約300km)
当時の交通事情などを考えれば、所要時間は9〜12時間ほどだったことが予測できます。
地図で見れば、愛媛県の松山経由のルートの方が近く見えますが・・・
戦時中、船舶は軍事目的(兵士や物資の輸送)に徴用されており、松山と広島を結ぶ民間の船は大幅に減便または運休していたようです。
また、呉は軍港として標的になりやすいという事情もありました。
安全面を考慮しても、民間人が高知から呉まで移動するには、やはり岡山経由の可能性が高いと考えられます。
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