やなせたかしと母はその後再会?最後や東京での晩年の史実【柳瀬登喜子】

このサイトはアフィリエイト広告を掲載しています。
紫の着物の女性
  • URLをコピーしました!

アンパンマンの生みの親「やなせたかし」さんの母は、柳瀬登喜子(やなせときこ)です。

早くに夫を病気で亡くした柳瀬登喜子は、小学生だったやなせたかしさんを伯父の家に預けて再婚してしまいます。

朝ドラ「あんぱん」では、数年後に嵩に会いに来たものの、また一人で町を出て行ってしまう様子が描かれました。

史実では、やなせたかしさんと母親のその後はどうなったのでしょうか?

そこで今回は、

  • やなせたかしと母はその後再会したのか?
  • やなせたかしの母の最後や晩年はどうなったのか?

について詳しくご紹介していきます。

目次

やなせたかしと母は再会した?その後の史実とは

やなせたかしさんは、母・柳瀬登喜子さんと何度か再会しています。

小学2年生の時に母親と離れ離れになったやなせたかしさんですが、関連図書などによれば、その後何度か再会を果たしていることがわかっています。

詳しく見ていきましょう!

①中学生の時に母親と再会

「やなせたかしの生涯」という関連書には、「中学生の時に一人で母親に会いに行っていた」というエピソードがあります。

嵩はときどきひとりで母親に会いに行っていた。千尋はそのことを知っていたようで、あるとき嵩にこう言った。
「兄ちゃんはいいよ。でもぼくは行けない。ここのお父さんとお母さんに申し訳ないし、ぼくは柳瀬家の後継だから」
悩みなどないように見えた弟も、人に言えない苦しさをかかえていた。

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

母の登喜子さんの所在がどこかまでは書かれていませんが、やなせさん達が住む南国市から一人で行ける距離に母親が住んでいたことが推測できます。

朝ドラ「あんぱん」では、母の登美子は高知市内で再婚生活を送っていたので、似たような境遇だったのかもしれません。

しかし、自分を置いて言った母親と会うのは辛くはなかったのでしょうか?

当時の気持ちについて、やなせたかしさんは、「どうしても登喜子さんのことを恨む気持ちにはなれなかった」と語っています。

御免町で暮らすようになってからも母の悪口が耳に入ってきて、嵩はそれを聞くのが何よりも嫌だった。自分を置いて再婚したことを知ったあとも、母をうらむ気持にはどうしてもなれなかった。

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

「一人で会いに行っていた」という文言からも、中学時代の再会は一度だけではなさそうです。

朝ドラ「あんぱん」では、会いに来た嵩に対して「ここへ来てはいけないの」と突き放す姿も見られましたが、実話では、やなせたかしさんを追い返したりはしていなかったということですね。

②戦後に母親と再会

やなせたかしさんは、1946年(昭和21)年1月に中国から日本へ生還し、故郷の高知県に戻ってきています。

戦後に母・登喜子さんと再会し、「何十年ぶりかに母のひざまくらで眠った」というエピソードが残されています。

嵩は戦争から帰ってきたとき、何十年ぶりかで母のひざまくらで眠った。(中略)顔に熱いものが落ちてきて目を覚ますと、それは母の涙だった。母は横を向いたまま、小さな声で、「許してね」と言った。

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

この時のやなせたかしさんの年齢は27歳前後で、母登喜子さんは52歳前後と思われます。

息子が無事に帰ってきたことを喜びつつも、小さい頃に十分甘えさせてあげられなかったことや置いていったことを悔やむ様子が伝わってきます。

【弟の千尋】大学時代に母親と再会

やなせたかしさんの関連本には、弟の千尋さんと母・登喜子さんが二人で写っている写真が掲載されています。

これは、弟の千尋さんが京都帝大時代に写真館で撮られたもので、やなせたかしさんの写真アルバムに残されていました。

その写真には、やなせたかしさんの文章が添えられています。

(中略)
帝大生というものはあまりお洒落ではありません
母ちゃんと一緒に京都で撮った写真です
母ちゃん旅でやつれています

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

弟の千尋さんが京都帝大に在学していたのは、1941年(昭和16年)4月〜1943年(昭和18年)9月です。

在学中は京都に住んでいたはずですから、母の登喜子さんがわざわざ京都まで会いに行った(旅行)だったようです。

中学生の頃は伯父さんたちに遠慮して、「ぼくは会いに行けない…」と言っていた千尋さんでしたが、実母との交流が残っており、しっかり再会していたことが伺えます。

戦争が激化していた時代性もあり、「会っておきたい」という母心があったのと同時に、エリートコースに進んだ千尋さんのことが誇らしい気持ちあったのではないでしょうか。

しっかりと写真館で写真を撮っているくらいですから、養子に出した千尋さんのことも大切に想っていたのでしょう。

やなせたかしの母・柳瀬登喜子の最後や晩年は?

やなせたかしさんの母は、再婚した夫に先立たれ、晩年は東京で暮らしていたようです。

門田隆将『慟哭の海峡』という本の中では、「東京の官僚(子持ち)と再婚した」「その後は夫に先立たれて世田谷の一軒家に住んでいた」という情報があります。

また、やなせたかしさんの関連本においても、「東京の家に住んでいた」という言葉が記されています。

登喜子も再婚相手の男性に先立たれ、亡夫が残した東京の家に住んでいた

「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」より

しかし、母の登喜子さんがその後どうなったのか、いつ亡くなったのかなどの情報は見つけられませんでした。

やなせたかしさんも戦後は東京に移り住んでいるため、同じく東京に住む母・登喜子さんとの交流は続いていたのではないかと推測できます。

朝ドラ「あんぱん」でも、東京の学校に進学した嵩と母・登美子の再会が期待できますね。

まとめ

今回は、やなせたかしさんの母・登喜子さんとの再会やその後について詳しくご紹介しました。

やなせたかしさんは、学生時代や戦後に母の登喜子さんと何度か再会を果たしています。

また、弟の千尋さんも大学時代に母と再会して、記念写真を残していました。

朝ドラ「あんぱん」では、どうしようもない母親として描かれていますが、実際には、母心と自由さの中で葛藤しながらも、息子たちを愛した母親像が伝わってきます。

参考にした本はこちらです。


【関連記事】

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次