朝ドラ「ばけばけ」では、いよいよレフカダ・レブンが松江に到着!
第5週からは、地元の新聞社「松江新報」の記者も登場しましたね。
当時の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、どのように新聞に載っていたのでしょうか?
そこで今回は、
- 【ばけばけ】松江新報のモデルの新聞社はどこ?
- 小泉八雲の様子を伝える当時の記事は?
について詳しく解説していきます!
※本記事には、朝ドラ「ばけばけ」の今後の展開を含む可能性がありますのでご注意ください。
【ばけばけ】松江新報のモデルの新聞社はどこ?
「松江新報」のモデルは「山陰新聞(現:山陰中央新報)」と思われます。
「山陰新聞」が「松江新報」のモデルと考えられる理由は、
- 小泉八雲の記事の掲載数が多かったから
- 松江でのシェアが最も大きい新聞社だったから
です。
詳しく見ていきましょう!
①八雲に関する記事を36回も掲載
小泉八雲が松江に滞在したのは、443日(約1年2ヶ月)でした。
その間に「山陰新聞」は、合計36回もの記事を出していたのです。
つまり、
月に2〜3回のペースで八雲の記事を掲載していた
ということになります。
「ばけばけ」での「松江新報」は、小さなネタもビッグニュースに仕立て上げるという記者が活躍します。
実際の記事の内容は後から紹介しますが、それだけ異人の教師が人々から注目されていたことが伺えますね!
このような記事数(ネタ数)の多さが、山陰新聞が松江新報のモデルと考えられる理由の1つです。
②松江でのシェア1位の新聞社
ばけばけ「松江新報」のモデルと思われる「山陰新聞」は、明治15年に松江で創立された新聞社です。
自由民権運動の機関誌としての始まりでした。
その後、ライバル社の「松陽新報」が創設されますが、それは「明治34年」のこと。
小泉八雲が松江に来た年は、「明治23年」です。
つまり、その頃にはまだ「松陽新報」は存在せず、明治20年代の松江の新聞社といえば、「山陰新聞」であったわけです。
これが、ばけばけ「松江新報」のモデルが「山陰新聞」である理由の2つ目です。
その後、松江の新聞社の争いはどうなったのでしょうか?
1942年、戦時中の統制により「山陰新聞」と「松陽新報」は統合されています。
そして、「島根新聞」という社名へ。
昭和の「島根新聞」時代の経営者の中には、あの読売ジャイアンツで有名な「正力松太郎」もいました。
その後、何度か社名を変更しながら、現在の「山陰中央新報」へとつながっています。
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— 山陰中央新報 (@SaninChuo_) October 1, 2025
本社所在地:島根県松江市殿町383 山陰中央ビル6階
支社:東京、大阪、広島
従業員数:276名(2024年1月現在)
公式サイト:山陰中央新報
【山陰新聞】小泉八雲の様子を伝える当時の記事とは?
先ほどご紹介したように、松江新報のモデル「山陰新聞」は、小泉八雲に関する記事を36回も掲載しました。
その中でも、印象的な記事を5つご紹介します。
- 松江に到着(1890年9月1日)
- 友人のお見舞い(1890年10月27日)
- 神社の狐(1891年3月27日)
- セツ登場(1891年6月28日)
- 生徒からの餞別(1891年10月30日)
①八雲が松江に到着
小泉八雲が松江に到着したのは、1890年8月30日。
その2日後の9月1日には、山陰新聞に、
師範学校の教師となるへルン氏は、一昨日午後4時に来松。
末次本町の冨田ツネ方(冨田旅館)に投宿せり。
と掲載されました。
これが小泉八雲に関する最初の記事だったと思われます。
小泉八雲は、当初、松江の老舗旅館に滞在予定でした。
しかし、末次本町にあった「冨田旅館」を気に入ったようです。
小泉八雲は豪華な高級旅館よりも、庶民向けの雰囲気が好きでした。
朝ドラ「ばけばけ」では、冨田旅館は「花田旅館」として登場します。

②友人のお見舞い
それからの山陰新聞は、「へルン氏に関する雑話」として小さなネタもコラムのように取り上げるようになりました。
八雲が到着してから約2ヶ月後。
1890年11月には、
友人の西田氏を心配して、人力車を飛ばして見舞いに行った
という記事を掲載しています。
この「西田氏」とは、松江中学の同僚であり、八雲の親友・通訳でもあった「西田千太郎」さんです。
西田千太郎さんはは病弱であり、たびたび床に伏せていたようです。
朝ドラ「ばけばけ」では、西田千太郎は「錦織友一(吉沢亮)」として登場しています。

③神社の狐
他にも、「山陰新聞」には小泉八雲の小ネタが満載でした。
例えば、
八雲が散歩で訪れた稲荷社の狐を大いに気に入った。
町のカメラマンに写真を撮らせた。
という記事が、1891年3月に掲載されています。
小泉八雲が散歩で訪れた稲荷社とは、「城山稲荷神社(松江市殿町)」でした。
八雲が「珍しい!」「面白い!」と喜んだ狐は、こちらのペアの石像だったようです。

「八雲がほめていた狐」として木札も掲げられています。
石狐
小泉八雲は好んで当社に参拝散策していましたが
当時数十もあった石狐の中で
特にこれをほめていたといいます
この神社は八雲の散歩コースの1つとなったようで、朝ドラ「ばけばけ」でも登場予定です。
④セツの登場
後の妻となる「小泉セツ」さん。
小泉八雲の家に「住み込み女中」として働き始めたのは、1891年2月頃でした。
半年後の8月に結婚に至りますが、その前の6月に「セツ」という名前が新聞に登場しています。
親孝行であるセツを思いやり、
困窮した彼女の実家を援助することにした。
当時、小泉八雲は月給100円(現在の価値で200〜300万円)でした。
セツの実家の窮状を知った八雲は、セツに毎月15円(30〜45万円)という給金を支払い、実家(小泉家・稲垣家)の援助に充てたようです。
さらに、小泉家のために家を借りてあげる(殿町)などの行動も伝えられています。
この時、八雲にとってセツとはどのような存在だったのでしょうか?
長谷川洋二著「八雲の妻・小泉セツの生涯」では、この6月28日の記事で、セツさんは
へルン氏の妾(愛人)
と紹介されていたようです。
いわゆる「ラシャメン(洋妾)」であり、ただの住み込み女中ではなかったことが伺えます。
住み込みを始めた2月〜6月の間に何があったかは不明ですが、お互いに惹かれ合い、男女の関係へと変わっていたのでしょう。
⑤生徒からの餞別
小泉八雲は松江の寒さに耐えきれず、九州の熊本への赴任を決めます。
1891年10月には、
熊本へ赴任する八雲のために
生徒がお金を集めて日本刀を贈った
という心温まる記事が掲載されました。
それだけ八雲が生徒たちに慕われていたことが伺えます。
以上が、山陰新聞に掲載された小泉八雲に関する記事の一部でした。
公にされている事実だけなく、プライベートなことまで細かく取り上げられていましたね。
朝ドラ「ばけばけ」では、どんなエピソードが取り上げられるのか注目していきましょう!
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